2009年07月19日

第十九話 金色の月vs.着信拒否



My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC

このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

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電話をかけるということが、今よりももっと重大な切実な意味を持っていたころに生まれ育った私にとって、”知り合いからかかってきた電話に、わかっていて出ない”などという行為は、とんでもなく背信的に感じる。いくら言葉で取り繕うが、結局その行為が意味するのは、「あなたの話など、聞きたくない。聞く耳持ちません。関係を絶ちたいのです。」という暗黙の返答である。それでも昔は電話に出た。もちろん、相手が誰なのかわからないからもあるだろうけど。電話は大切な知らせをもたらす機械だった。たとえば、相手が誰で、用件がおそらくは聞きたくない内容のものだと予測できたとしても、よっぽどのこと(身に及ぶ危険を感じる場合など)でない限り、正々堂々と、または嫌々ながらも、電話に出て、その思いを相手に伝えることを誰もがしていたと記憶している。事情が変わったのはいつからだろうか。まずは、留守番電話なるものが世に登場した。それを使って、相手の声は確認しつつも自分側は居留守を使う、という行動がだんだんと一般に定着してきたと思う。”ポケベル”なるものの流行を通り抜けて、ついにこの世の中は携帯電話を生み出した。その機能のひとつにあったのが、”着信拒否”。親密なコミュニケーションをするために手に入れたはずの機械で、自動的にコミュニケーションを一方的に絶つという本末転倒?パラドックス?。

「着信拒否」という曲のタイトルは後日につけたものだけど、詩は前回の記事にも書いたように私たちの実体験だ。そのときに書いた手紙の文章を、KG-Kさんのトラックにのせて読んでくれ、とmasta.Gに言われたとき、私はすぐさま「嫌です。」と答えていた。今思えば、私はmasta.Gの言うことに、ことごとく反抗的だったようだ。最初の「音楽やろうよ」の誘いへの返事から始まって、いつでも「嫌です。」がまず口から出た。今思えば、なんと生意気だったことか。とにかく、そんなキツイ内容の個人的な手紙を、音に乗せていうことの意味が理解できなかったし、どんな風に読めばいいのかも、想像すらできないでいた。無知な固い頭の中で、「韻も踏んでないし、そんなのはラップじゃない。」とも思っていたかもしれない。masta.Gは言った。「今起きている本当のことを、そのまま伝えたいんや。作り事じゃないやろ。腹立ってるンちゃうんかい。俺は腹立ってるよ。こんな世の中にしやがって!それを言うんや。音に乗せて読んでくれや。」…それでも私はやらなくて、そのまま数ヶ月が流れていった。

怒りや思いをぶつけるような曲から離れたい。好きだった景色や夢みたいだった思い出を歌にして、演奏する自分自身が楽になれる歌を作りたい‥。それまでのあらゆるヘビーな人間関係が、頭の中で最悪の消化不良を起こしていた私には、それが必要だと思えていた。もうほとんど誰も現れなくなったスタジオに、一人こもってひとつの詩を書いた。初めのころにやっていたように、トラックを部屋に流して、それに乗せて歌にしてみた。誰に聞いてもらうためでもなく、自分の心を休めるための歌を。毎朝早く、発声練習をしに通ったLAのベニスビーチ、母と二人で雨宿りしたハワイのスコール、遠い昔に見たインド洋のサンセット…思いは海に、風に、外国の空に、飛んだ。その曲につけたタイトルは「金色の月(きんいろのつき)」。CD-Rに焼いて、大阪市内にある糸川さんの写真スタジオまで聞いてもらいに行った。糸川さんは、この曲をえらく気に入ってくださり、当時ちょうど撮影が終わりかけていたデジタル映画「レモン・セッケン2」に使いたいと言って下さった。多くを語ることなく、糸川さんは私の心の奥底にある気持ちを感じてくれた。「この曲ね、楽やねぇ。すごく楽や。誰も責めてない。それがいい。”終わらない時間”っていう言葉を歌ってるでしょ?僕のこの映画もね、”時間”がキーワードなんや。だからちょうどいい!」と。写真家・そして無類の音楽好き、糸川さんの洞察力はいつも鋭い。

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この「金色の月」を身体の外に出したことで、痛かった私の気持ちは少し救われた。のちのち、kazh作のこの曲のバックトラックがいかにGroovyでリズミカルなのかに遅れて気づいて、これは「楽」だなんて言ってられないぞ〜と知り、最も難しい歌のひとつになるとは分かってもいなかったのだけど。

そして、時はちょっとだけ進み、私は気持ち新たに現実に向きあえるようになってきた。棚に上げたままになっていた例のものに、私なりの落とし前をつける時が来たのだ。masta.Gが用事で外出していたときに、マイクの前に立ち、KG-Kさんのトラックに乗せてあの手紙を朗読した。「着信拒否」には英語でCall Deniedというタイトルをつけてネットでもすぐに発表した。内容のきつさに日本のリスナーの皆さんは言葉を失った。あまりにもリアルすぎて、どうにも対応できないでいるように見えた。(生涯パンク!を自認する糸川さんだけは、「名曲ができましたね!!」とmasta.Gに言っておられたそうだけど。あ、それから坂本龍一さんのRadio Sakamotoのオーディション優秀作品に選ばれたのも、この曲が最初でした。←後日追記)ところが、思わぬところから反響が来はじめた。海外、特にアメリカのAfrican-Americanのリスナーやミュージシャンである。二番目のバースが英語なのを除いて、他は日本語の、しかも手紙の朗読だったにもかかわらず、ネット・ラジオからのオファーが来たり、わざわざ感想を書き送ってくれる人が続出した。わかるのかな?という私の疑問に、masta.Gさんは自信を持って答える、「本気でやってる音楽やったら、分かるに決まってる!」私が一番うれしかった感想は、若い黒人男性が書き送ってくれた、この短い文章だった。

The shit is crazy!

ミュージシャンである私にとって、crazyは最上級の賛辞にも等しい。他にも、同じような経験があるのか「おい!電話に出ろや!」と、曲の内容にあわせて一緒に怒ってくれる人や、「日本語のラップがたまらなくいい。燃える赤のようだ。」と感想が寄せられた。とにかく、日本語のところがゾクゾクするという意見が少なからずあって、それは私には驚きだった。あんなに頑なに拒んだけれども、やってみて、これで良かったんだと思わせてもらった。もちろんKG-Kさんの大胆不敵な音作りと、masta.Gの日本語の詩が持つ過激なスピード感と、Gさん独特の分厚い音のミックス具合が、刺激物大好きな西洋の音楽ファンの耳に合ったのに違いないと思う。

まさにリアル・ストーリーなキツイ一発「着信拒否」は、誰よりも私に効能があったのか、この頃から徐々に、自分にまつわり付いて離れなかった例の気の病を越える兆しが、少しずつではあるけれども見え隠れし始める。そして、この実録シリーズも、次回あたりそろそろ”最終段階の始まり”へと向かうのである。

〜つづく〜


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2009年04月11日

第十八話 新世界パワー注入!


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(前回からの続き)
例の病気はまだまだ治る兆しがなくて、いつ発作が起きるのかびくびくしながらも出来るだけフツウに生活しようとしていた。この音楽物語のシリーズをずっと続けて読んでいてくれる人が居られたら、きっと「いつまでその事ばっかり云うとんねんな〜。エエ加減にせえよ。」と呆れておられる事だろう。それはまさしく私の感じていた思いとまったく同じ。「これって…一体いつまで続くんやろう。もうイヤや。うんざりや。怖いし、しんどいし。遠くに出て行くのも賭けみたいで不安やし…。」と。何年続いたのかもう数えもしてないけど、長かった。もちろんそんな事はさておいてmasta.Gと二人でLIVEはやっていた。リハーサルも毎日のようにやった。当たり前である。目の前が真っ暗になろうが、太陽がマッ黄色になろうが、床に倒れこんで寝ころんで息が出来なくてハアハア云おうが、泣こうが、嘆こうが、私にはもう音楽をやって乗り越えるしか解決策はないのだから。

その頃から、masta.Gの旧知の音楽友だちでありベーシストの清水興さんには、曲が出来るとPCを通して聴いてもらい、屈託の無い建設的な意見をもらったりしていた。清水さんは私の「Angel Calling」を当時とても気に入ってくださっていた。「ええね〜。グッとくるフレーズもあるし!」と云ってもらったのを忘れず覚えている。ある日、清水さんが、知り合いに面白いDJがいてなかなか楽しいトラックも作ってるから紹介してあげよう、というメッセージをくれた。清水さんの紹介では、彼KG-Kさんは通天閣の近くに自分のスタジオを持ってるとのことだった。一緒にスタジオまで連れて行ってくれるとの有り難い申し出を喜んで受けて、私たちが待ち合わせしたのはあっぱれ通天閣の真下だった。私にとっては、物心つく前からよく遊んだ街であったけれども、大人になってからはほとんど行く機会のなかった懐かしの場所であった。清水さん運転のカッコイイ車に乗せてもらって、と言ってもほんの1分少々で私たちはTWO-10スタジオに到着した。(KGさん宅には大きなラブラドールが居た!)

たくさんの楽器に録音機材に録音ブース…なんだか手作り感覚も感じる暖かい木のイメージの自宅件スタジオで待っていてくれたKG-Kさんはスラリとしたハンサム・ガイで、そして、何よりも思いっきりファンキーで元気〜な現役DJそして御自身もラッパーだった。スクラッチも披露して楽しませてくれた。しばし音楽やミュージシャン話で盛り上がった帰り際、KGさんは私たち一人一人に自作のトラックをいっぱい焼き付けたCD-Rを持たせてくれた。帰ってから聴いてみたら、心をとらえて離さない作品が数曲あった。これが後になって私達のあれやこれなどの代表曲へと繋がる事は、もちろんまだわかってなかったけれど、とにかくmasta.Gも私もその中のいくつかが大好きで繰り返し聴いていた。音楽はいい。今さらわかりきったことを、と言われるかも知れないけど、こうして新しいトラックを頂くと、楽しさと希望みたいなものがそこに乗っかっているのである。病気とは無縁の、まったく別の空間に身も心もゆだねるチャンスを与えてくれた。暗い気持ちを感じる脳みその部分はシャットアウトされて、ネイロとリズムが私をさらう。さらわれるのが気持ちいい。DOPEと呼ばれる所以である。ずいぶんと救われた私だった。

生まれたての赤ん坊の頃から、父親に連れられて毎週のように歩いて通っていた大阪・新世界。「お前が赤ちゃんやったときはな、”更科の鍋焼きうどん”で大きくなったんやで。僕が短くちぎってゆっくり長い時間かけて食べさせたんや。」と父は何度も口にしていた。幼稚園のとき、プレゼントしてもらったばかりのキラキラ光るビーズの財布を盗まれた”フグのづぼらや”。「アホみたいに喜んで見せびらかしてるから盗られるんや!ここらにはお金に困ってる人らがようけ居るんやぞ!周りよう見い!」と父に大目玉をくらって泣きっ面にハチだったのが昨日のよう。今はもう無くなった見世物小屋。父にしがみついて覗き見たヘビ女やポンプ男のグロテスクな実演が今も脳裏に蘇る。幼児の私が興味津々で前を通ったストリップ小屋も今はもう無い。スマートボール。屋台のおすし。必ず買ってもらうおはぎ。「もう止めてと泣き出すまでロース揚げたって!」と父が注文してくれた串カツの八重勝。「抱っこさせろ」と小学生の私に絡んでくる酔っ払いのオッチャン。。。あの地には、私の幼小期の思い出がわんさかと残っていて、今でも夢に見ることがある。そして、何十年もの歳月をじっと密かに待ってくれていたように、あの日、KGさんの作った曲たちがいた。そして私の音楽への扉を確実に押し開いて、私に真の最初の第一歩を踏み出させてくれた。これは優しく気長に仕掛けられた人生マジック(魔法)。魔法でなくて何と呼べばいいのか、私には思いつかないのです。

さてその頃、理由が何なのかはハッキリわからないけれど、かろうじて練習仲間に残っていた人間の一人、masta.Gの門下生(ローディーなどの手伝いもしてくれていた人)が連絡を絶った。寝耳に水、まったくのいきなりだった。約束の時間にも現れず、いくら電話をしても出ない。そんなことは、バンドをやってからこっち、飽きるほど何度も経験してきた。「またか…。」彼はmasta.Gにとっては、比較的長く知っている人だったし、他の人間がこうして消えていったとき、彼自身も一緒に見てきたはずなのにまた彼自身も同じ事をしたのか、ということが私たちにとっては大きなショックともなった。何度電話しても出ない。留守番電話にもならない彼の電話。逃げる方もつらいのだろうが、わけもわからず、かと云って放っておけないこちらもつらい。一人暮らしの彼の身を思えば心配も募る。なのに話が出来ない。ついにmasta.Gは彼に手紙を書き送った。

「友だちは、みんないなくなった。」

この真っ赤な血のしたたるような衝撃的な書き出しから最後まで、この手紙の文章はそのまんま次の一曲への歌詞となった。私達のCDを持っている方々は、もうどの曲かすでにお分かりの事と思うけれど、長くなったので続きはまた今度にします。読んでくれてありがとうございました。(礼)

〜つづく〜


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2009年01月09日

第十七話 NYから聴こえた”愛しい人”


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次から次からあらわになってくる色んな人生の現実と、誠にやっかいな気の病にやたら投げやりになる自分と闘いながら自分のホームページを手探りで少しずつ作っていた頃、ふと目を止めた音楽系のサイトがあった。それは、ニューヨークで大学に通いながら自由な時間に音楽も作っている若い日本人の男の子GENXくんのサイトだった。当時GENXくんはトラックメイキングをやりながらラップもやってた。そのサイトに作品を発表している仲間に、ニューヨーク生まれニューヨーク育ちの日本人ラッパー、当時はまだ18才か19才くらいの自由人だったDIPくんもいた。そして、子供の頃から海外の学校で生活をし、アメリカの大学を終了して大学院に入ろうとしていたSTFくんがいた。

「日本人なら言いたい事は日本語でやるのが本来の姿でしょ。」という周りの声やアンケートの言葉にとても考え込んでしまっていた自分にとって、彼らの作品がとても新鮮に感じた。それまで、「日本語では作れません。どうしても洋楽のスタイルに日本語の歌詞はダサいと思えてなりません。」と、(英語でやってもそんなに素晴らしいものを作っていたと云えないのに…ですが)頑なになっていた私は、よくmasta.Gに、「それは君の頭にあるものがダサいだけやろうが!自分のセンスの問題や。ダサくないと思うもん作ったらエエだけやろう!そんなこと言うたら、日本語でやってる人らに失礼すぎるやろ。あんまりたくさん聴いた事無いくせに軽々しいこと云うな。」とよく叱られていた。それもそうだと思いつつも、なかなかそういうスイッチは入らなかった。でも、彼らはやっていた。英語も私なんかよりももっと流暢に話せるけれど、それでも作品は日本語でも作っていた。まさしく一般にいうバイリンガルまたは帰国子女という人たちだった。「この人たちと知り合いたいな。」と、私は初めてインターネット上でのメッセージを送ることをした。まさしくドキドキの初体験だった。

当時の彼らは音楽を始めたばかりで、大先輩の目上のミュージシャンの皆さんや耳の肥えてしまった年配の音楽ファンの皆さんからすれば、この彼らのトラックやラップは未熟に聞こえるのかも知れないが、私にはエンタテイニングに聞こえた。彼らのラップの内容も、毎日の生活や心の葛藤がありのままにぶつけてあって、実際の年齢よりも中身が子供仕様な私にとっては、聴く曲すべてが共感できるものだった。当時の日本語のHIPHOPといわれるジャンルの作品は、ギャングぶったり、悪ぶって格好をつけたようなものがほとんどだったけれど、彼らは等身大の若い男性の日常の思いを書き綴っていたのも、私が大好きになった理由の一つと思う。それこそがリアルな表現だと思えた。もしも内容が幼くても、嘘もはったりもなく正直だったら、それで私にはAll RIGHTだった。それほど私は周りの人間の嘘に疲れていた。許せないし、もううんざりだった。

GENXくんの作品でも一番人気だった「愛しい人」は、終わりかけている切ない恋愛の歌で、歌の部分もラップの部分ももう彼自身と女性ボーカルとDIPくんが完成させていたけれど、CDで音を送ってもらい、新バージョンとして私(当時はまだQueenBと名乗っていた)が、元のコンセプトとは少し目線の違った新しい歌詞と追加のラップを入れさせてもらったものがあるので下のプレイヤーに入れておきます。(タイトル:ITOSHII HITO)masta.Gの提案でブルース・ハープを吹く知人も参加してもらった。「愛しい人 qb version」というタイトルで自費制作アルバム「着信拒否」に入っている。

もう一曲プレイヤーに追加した曲、「黙々-the LIVE is the LIFE-」というのは、GENXくんが企画していたラップ大会(GENXくん作のトラックに、いろんなラッパーが歌詞を乗せて楽しんでいた)で私が提出したものである。これはちょっと前まではLIVEでもやっていて、「愛しい人」と並んで20代の若い女の子を中心にとても好評だった。そうそう、このラップ大会ではSTFくんが「そこにあるもの」という作品で優勝したのが懐かしく思い出される。みんな同じトラックで違う歌詞を入れて楽しむ、こういう音の遊びに参加させてもらっていると、しんどい病気などどこかへ飛んでいくようだった。たとえそれが一時の気休めだったとしても、楽しんで集中できる目標をくれ、私が何歳かなど尋ねる事もなく遊んでくれていたことに、今もめちゃくちゃ感謝している。特にSTFくんの作品『Acceptance』は(バックトラックはアメリカ人のお友達)、私の心の闇の部分まで貫いてきた。泣くのは大きらい。特に人前ではぜったいに何があっても泣かない。簡単に泣く女の子達も大きらい。と小学校からずっと変わらずガッチリ固めた心のガードをどこをどうしたことかスッと通り抜けて入ってきた。発作があった日の夜に何度聞いたか知れないし、病気から抜け出せた今も時々聴かせてもらっている。もう泣いてないけれど、この曲は大事な曲として心に残っている。有名・無名・経験・年齢・性別などの縛りを超える歌を作ってくれたことにありがとう、と云いたい。masta.Gもこれらの曲の制作作業を思いっきり楽しんでやってくれていた。

そして、彼らとの出会いの数ヶ月後、次に私とmasta.Gが出会うことになるのは通天閣のお膝元、今や日本中の人が知ることとなった”コテコテ”という形容詞の発祥の地というべき、私の幼心のふるさと新世界に音楽スタジオ兼住居を構えるファンキーこの上ないあの人だった。彼のトラックが私達のミュージシャンとしての活動を次へのステップへと進ませてくれる事になるとはまったく分からなかったけど。

〜つづく〜


「愛しい人」のすべての歌詞は、私達のPCサイトのこのページに掲載しています。





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2008年12月14日

第十六話 その扉を開けるな!


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”人はな、正しいか間違ってるかでは動いてないんや。
みんな『ココロ』で動いとんねん。
いくらが君が正しいことを云うてようが、
心が動かんと人は動かんねん。ええことも、悪いこともな。
_masta.G


自分なりに自分の芯にあるものを模索して、青天の霹靂のようなあのすごいネガティヴパワーを持つ精神的な病から立ち直ろうと思うがあまり、むちゃくちゃ悩んで、やっては失敗し、試しては悪化しの繰り返しの時期もあって、それは数年間続いた。それがココロの無駄遣い(敵=やっつけたい相手=悪魔の思う壺)とわかるまで長い時間を費やして、そのストラッグルのさなかにたくさんの命が天国へ召されていった。家族、親戚、友だち、一度だけ会った素敵な人々、ついに逢えなかった人々。今こうして振り返ってみると言葉にできない感謝があるけれど、それはこの物語のもう少し先でお話しましょう。

外に出るのもやっとではあったし、人が来ると息がつまって誰も居ない部屋のベッドで横になったりして失礼してしまったり、スーパーにいけないのでGさんの食卓には出前が増えたりしたけれど、辛いと思いつつ、こんな事も考えていた「あたりまえや。私は”音楽”をやってるんや。しんどくて、うまくいかなくて、それはあたりまえや。」と。笑われそうなことを書くけれど、私達みんな知ってますよね。ちゃんとやる、と云うことはごっついしんどいものだ、と。漫画でも映画でも実話でも本でも、普通じゃないほどしんどい出来事を乗り越えて登場人物は思うところへ笑顔で飛び立つもの。簡単なわけがない。楽にすすむはずがない。そんな漠然とした理解をする私でした。つまり、これを超えた先にしか行きたいところは無いとわかっていたのが救いだったかもしれません。やめる、という事は、私には金輪際ちゃんと音楽にリズムに乗って、ごまかさず気持ちよく聴けるチャンスを逃す事になるのだから。(好きなはずなのにその一番の魅力をしっかり掴んでないから、のり方や出し方を間違う。しんどくなるのも当たり前。体験から言うのですが、これは事実です。)

時間がかかるなぁ。いろんな意味で間に合うかなぁ。なんて考え出すと、また取りとめなく考え始める。この思考回路が自分でOFFにできない、くるくる頭にばかり血が行って、息が入ってこず苦しくなったり手足が冷たくなって立っておられなくなるのが自律神経失調症のしんどいところです。さてと…これをどうやってストップして冷静な心持で暮らし、呼吸を楽にできるようにするか。でないと一歩も進めないし、ゆっくりしている余裕も無いのに、と困り果てていた頃、砂川正和さんと写真家の糸川燿史さんがダンスとジャンベーの演奏と、ドキュメンタリー映画の上映を合体させたイベントに招待してくださった。ものにつかまりしゃがみこみながらも必死で会場まで行った。そこで逢った砂川さんが最後の砂川さんになってしまった。なんで…。元気そうにしてたのに、なんで。ちょうど自分が調子悪いときに親しい人が亡くなると衝撃は倍増するものだとわかった。一人で生きてるんじゃない、離れてても繋がってる、というのが実感できた出来事だった。糸川さんもそうとうショックだったと思う。今まさに”楽しい無害なワルダクミ”を一緒に熱くやっている仲間です。なんとしても治らないとアカン、と思わせてもらえた。残念な形ではあったけれども。

数年後、糸川さんとGさんと三人で喫茶店でお話する機会があった。大阪のミュージシャンでこの人を知らない人はもっと勉強して下さい、と云いたくなるほど何十年も精力的に活躍されている写真家糸川さんは私の伯父ではあるけれども、それを知ったのはつい最近。それでもクリエイターの大先輩として見守って下さっているのがありがたい。私のヘタレぶりは一目瞭然だったと思うけれども、そんなことには一mmも触れないのが百戦錬磨の糸川流でした。Gさんとココロの話を始められました。「音楽やってるとね、どうしてもある時に精神的な方に入りすぎることがあるみたいやな。あんまり考えてやるもんとちゃうねんけどなぁ。」と糸川さんが言うと、Gさん応えて「そうです。その扉はちゃうで。そこ開けて入ったらアカンで。みたいなね…。」しばしの静けさの後、また糸川さんが、「辻川さんは昔からトランペットやらの楽器やってて、楽譜がじゃまになったことはありませんか?」と質問。Gさん「ありました。ふと頭に楽譜が浮かんで出てきて『あ〜今あのページの上のほうの…』とか見えてきてすごい困ったこと何回もあります。うわー!っと。」そうなんです、考える事はいつも演奏の邪魔です。それをぶっちぎることを練習する事がコレから先の使命だと思いなおした。

ライブを入れろ。曲を作れ。そんだけ痛んだんやったらその分うまくなれ。作り事や他人事でない歌をつくって、練習もっと頭がおかしくなる位やってたら、そのうちに身体の奥からココロからの声を出せるはずや。本気というのはそういうことができるようになってから使う言葉や。やっと痛みがわかってきたから、病気になってよかったよ。楽に逃げながら生きてるような人間はみんなそうなってみたらええねん。とことんまでつらさを知ったらええねん。大変な思いを知ってるほうがええんや。それで初めて思いやりやブラザーシップやらが生まれるんやから。人間らしく生きなあかんよ。こう云ってもらったり自分で云ったりしながら、ちょうどその頃、私はパソコンを使い始めていた。それまでは、宣伝やチラシ作りは生徒やスタッフに任せて、自分ではPCを持ってもいなかった。バンドがなくなって、そういう作業は自分でやるしかなくなったので中古を買ってもらって始めたのが今この瞬間につながっています。そのパソコンを通じて私の音楽は新しい出口を仲間をつくらせてもらっている。こうして長い打ち明け話も聞いてもらえます。

考えるより作れ!悩んでる暇あったら練習せえ!の精神がやっとこさオンになりかける。子供のあの日に、「やらない、やれない」と決めていた音楽だけど、自分のココロの決着つけるまでやるしかないと思えるようになり、ようやく音楽の入口にグイっと近づいた頃のお話でした。

〜つづく〜








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2008年10月30日

第十五話(3)エンジェル・コーリング


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>いつもこの物語を読んでくださっている皆さんへ。
今回は音楽の話からは少し逸れますが、この音楽物語を続けるためには避けて通れない、今から思えば人生のターニング・ポイントのような部分ですので、できるだけ簡潔にと心がけて書くことにします。

回想。

アメリカから戻り、私たちとの練習にネを上げたメンバーが続出してバンドが解散し、その次の本職のミュージシャンを入れたバンドでのLIVEリハーサルも思ったようにはならず、「やっぱり僕らは、お金の出るほうに流れてしまいますねぇ。」などと言い残しながらミュージシャン達が去り、結局はmasta.Gさんと私と、ほんの数人の生徒たち(ドラムと、英語の歌を習っていた人たち)が、スタッフとして残った。即戦力になるミュージシャンはもう周りには居ない、それでも私は「ぜんぜん心配する事ないよ。Gさんと二人でやっていた最初の形に戻っただけや。もっともっと練習して、頻繁にLIVEをやって、次々に曲を作って、プロモーションももっとチカラ入れて…何があろうと、自分がやるべきことは何ら変わりないから、大丈夫。」と強く思うことができていた。。。はずだった。

それは突然にやってきた。

市役所へ行く用事をいいつかって、いつもの道を行くべくGさんのアパートを出て、ほんの数十メートル歩いたところで、「!?」。言いようのないヘンな感覚に体中がこわばった。言い表そうにも言葉が思いつかない異様な感覚。細胞が非常事態を叫んでるような緊張感。立ち尽くして、何が起こっているのか理解しようとしてもわからず、息が詰まって、その苦しさに恐怖心が湧き起こり、そして一歩も歩けなくなった。道ばたにある石に座り込んで、ただ唯一思いついた”足三里”のマッサージをやるのだけど、ブルブルと小刻みに手が震えて指に力が入らない。なにこれ?

道行く中学生たちがみんな見下ろしている。ムチャクチャはずかしい、でも立てない。もしも立ち上がれたら、すぐそこに見えているGさんのアパートに戻ればいいだけなのに、一分もかからない距離なのに、それができず座り込んで足をさすっている自分がいた。一人の女子中学生が「大丈夫ですか?」と聞いてくれる。「え?はい。私、しんどそうに見えますか?」と敬語で聞き返したのを覚えている。「はい。痛そうに見えます…。」と彼女が応える。痛いのは心かな、とふと思い当たるとなんだか視界がぼやけた。けど、こんな場所で泣いてなんていられるか!彼女の親切な声かけをきっかけに、礼を言って立ち上がって、フラフラの身体を電信柱やフェンスにもたせながら二つ折れのようになって歩き、何とかGさんの部屋まで帰った。「どないしたんや!?」と青白い私を見てずいぶん驚いてはった。

家の引越し以来、いろいろな気持ちのアップダウンがあって疲れただけだと、その日は思ってた。まさかそれが、その後も数年間つづくことになるとは思いもしなかった。それから何度も繰り返し、”それ”は襲ってきた。行くところ行くところで起こった。スーパー・マーケットの明るさに耐えられず物陰でしゃがみこむ、交差点が広すぎるように見えて怖くて渡れずに来た道を戻る。夜、ちょっとベッドの端に腰掛けたつもりが、気付くと明け方になっている。バスでも他人の声が何重にも重なって全部聞こえるような気がしていたたまれない。何も見たくないのに目玉がグルグル動いて景色がビデオの早回しのようになる。そんなおかしなことが続くのだった。練習スタジオでも時に立ち上がれず、床を這ってぶざまに動いた。笑うことはまったくなくなり、スタッフの差し入れてくれる食べものは吐くようになった。広い駅構内では呼吸困難になり、足がすくんで顔を伏せてしゃがみこんだ。恥ずかしくても満足に息も出来ず動けないからどうしようもない。終電に乗っても発車間際にたまらなくなって降りたくなって必死でうつむいて耐えた。次第にテレビで人込みを見ても同じようになり、外に出歩く事を考えただけでも手が冷たくなって震えるようになっていった。

第一話に書いたように、アメリカで少しは医学をかじって数年間は患者さんを診たこともある自分の脳裏に、ある診断名が浮かんでいた。”Panic Disorder with agoraphobia”... 同じ症状の患者さんをアメリカで二人だったか治療した事がある。どちらも女性。一人は若い女の子。もう一人は、自殺願望のある中年女性。その症状に覚えがあって、間違いないと確信できた。でも、私は病院には行きたくなかったし、西洋薬での治療はしたくなかった。それで症状を抑えて会社勤めや仕事をしている方々が大勢居られる事も聞き知っていたけど、自分はそれをしたくなかった。なんとかして自分でこれを乗り越えられないか、調べ、考え、挫折する日々は続いた。外へ出られず、それでも家に閉じこもるのは絶対に嫌で、出かける決心するのに時間がかかる私にGさんは何度も励ましの電話をくれ、玄関まで迎えに来てくれることもあった。音楽続けるにも、歩けなくて、外にも出られないんじゃあ、もうどうしようもないか、と人目を避けて歩く夜道で何度か思いもした。人がそこに居る、というだけで足がすくむことが、本当に情けなくて、こんな能天気な自分がなんでこんなことに?と疑問ばかりが頭に渦巻いてた。

回想おわり。

実はこの症状になった初期の頃に作った歌があります。バックトラックがとても古いカセットテープに収録されたものだったために音が鮮明でなく聞きにくくなってしまっていますが、いつもの通りkazhさんがLAからGさんに送ってきた大好きなトラックでした。この時期のリアルな私の思いと、マイクの前だけ何もかも忘れて集中できた声が残っています。良かったら聴いてみて下さい。

Angel Calling
lyrics&melody:chi-B guitar&backtrack-making:kazh final-mixing:masta.G


















英語部分の和訳はchi-B&masta.Gのウェブサイトに掲載しています。
http://www.queenbmusic.com/fareasthiphopsoulqueendom/id42.html


今こうしてこれを書いている私は、もう大丈夫です。どうやって底なし沼のように思えるあの状態から抜け出して行ったかは、物語の続きで少しはわかって頂けるかと思っています。コレを書かないと次へ行けないし、カミングアウトなんて大げさな気持ちもなく、隠すほどのことでもなし。今夜はただ過去のことを思い出す気持ちで書いています。皆さん、心配はまったく無用です。どうぞサラッと人生にはそんなこともあるわなぁ〜と思っていて下さい。国内外のミュージシャンでもこの病気?の経験者はいっぱい居られます。アーティストに限らず、どんな職種でも。よく、心の風邪ひきみたいなものだといいますが、まさしくそんな感じです。規則正しい生活をしていれば、きっといつか治ります。

こんな事になったからと言って、やめる事・とどまる事は許さないmasta.G、そして自分でありました。辛いときにこそ、masta.Gは実に頼りになる存在です。決して甘やかしません。「頑張らなくていいよ。」「休みなさい。」なんて絶対に言いません。笑 耳の痛くなるようなハッパをかけてもらいながら、この後ぞくぞくと歌ができることになります。そして、幸せなことに他にも、私を「なめとったらアカンで〜!!」とばかりに立ち上がらせてくれた人達がいました。それはまた、いずれ続きでお話しましょう。読んでくれてありがとう。皆さん、身体はもちろんのこと、心にも気をつけて。秋の夜長の昔話でした。お付き合い恐縮しています。m(_ _)m

〜つづく〜


chi-B&masta.Gの”今”の音楽はこちらでどうぞ。
http://myspace.com/chibmastag


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2008年04月07日

第十五話(2)伝わらない思い


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The B-Funk All Starsというバンドがなくなり、当時の私は、間髪入れずまたすぐに次のバンドを作っていこうと決めていました。LIVEをコンスタントにやり続けてきた流れを断ち切りたくなかったし、それまでに増して、もっと真剣にやっていく心積もりもできていたのでした。masta.Gの音楽仲間のつてを辿り、数人のミュージシャンが練習に集まって下さいました。学生や音楽以外の仕事をしていた前のメンバーとは異なり、スタジオでお会いした方々のほとんどは、各自で音楽を仕事にしている方たちでした。プロのミュージシャンとして、タレントさんのレコーディングやツアーのバック演奏をしている人、自分のソロ演奏CDを出し長年ミュージシャン活動をしている人、音楽学校で演奏指導している人…。今考えれば大変恵まれていたのかも知れません。まずは当時ヒットしていたHIPHOPのコピーから練習をはじめました。でも、結局そのバンドでLIVEをすることはありませんでした。

今から思えば、私が自分のやりたい音楽と言うものを明確につかんでいなかった、ミュージシャン諸兄にはっきりと伝えることができなかったことが、LIVEをするまでに至らなかった一番大きな理由なのでしょう。(これは、今も修行中ですが。)そしてもうひとつ、HIPHOPという表現スタイルが、ここ日本では、生演奏とは離れた所にある異文化のようにとられていることも、混乱の要因にあったように思えます。ここ数年で日本人の認識も変化しつつあるようですが。HIPHOPの生まれた初期の頃、それは、DJがまわすレコードの延々と繰り返されるビートとスクラッチ(ブシブシとレコードを針でこする行為)、その波にのって云いたい事をストレートに吐き出すラッパー、そしてブレイク・ダンサー、それからグラフィティーと呼ばれる落書き(こう呼ぶにはあまりにも芸術的作品が多いと思うのですが)の要素を合体させた新しいムーヴメントでした。でも日本では、それまで音楽をやっていた人たちの耳は、それを音楽とは認識しないことが多くありました。「あんなのは音楽と違う。」この言葉を、私は何回か云われたことがあります。すべて楽器をやる日本人からでした。「やれと云われればやりますけど、こんなのDJでも雇ってレコードかけてやったほうがカッコええんとちゃいます?」といわれた事もありました。そんな、まるでメトロノームに合わせたようなの、合う方がおかしいわ、気持ち悪いよ、なんていう言葉まで聞こえました。そうでしょうか。

アメリカでは、状況はまったく違いました。CDでは機械で作った音も、LIVEとなると生演奏のバンドがガッチリと演奏を支えている事も多々あります。DJが回すビートに乗せて楽器のプレイヤー達が”ひとつの共通したルールの則”(=これがGROOVEへの必要不可欠な原動力と思われますが)を忠実に繰り出し続ける。さらに曲が進むに連れて、そこに各プレイヤーがソロを入れ、CDよりももっと分厚い、スピリットをひとつにした意味深い素晴らしいパフォーマンスとなっていく場面を、私とGさんは毎日のようにテレビでみていました。FUNKやR&Bはもちろんのこと、Rockとの融合、レゲエとの兄弟のような関係、そしてマイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、ロン・カーターなどJAZZプレイヤー達も例外でなく。皆がこぞって新しいスタイルであるラッパーやDJ達との共演を、80年終わりごろ〜90年代から盛んにやっていました。音楽をやる人間にはジャンルなど無意味なのだと、皆が音で証明していました。まさにP-FUNKのジョージ・クリントンのいう"ONE NATION under a GROOVE"です。そのひとつのGROOVEといわれるものの上で、個人個人が自由に遊ぶダイナミックなゲーム、そのエネルギーの交感とハーモニーが素晴らしいのでした。

ところが、そんなにBlack MusicとしてのHIPHOPを聞き込んだことのない、アメリカの最新の音楽LIVEを見る機会もない日本人のミュージシャンには、残念ながらこの思いが通じない。通じさせるテクニックも表現法も未熟者の私にない。ビデオを渡したり、ウッド・ベースが入っているCDを聞いてもらったりするのですが、無理やりに聞かせようとしても趣味ではないことも災いするのか、ツーカーとはいきません。私が好きな、その曲の持つ一番の味わいどころが消えてしまっているようで、何かが違うと感じる心がとめられない。それは当たり前だと覚悟してLIVEをやり始めるべきだったのでしょうが、生意気にも私自身がOKを出せずにいました。それぞれのギターやベースやキーボードは、そんなに複雑な音ではないので、集まってくれていたミュージシャンにとっては、「単純な曲ばっかりなのに、この子はいったい何を躊躇ってLIVEせずに練習ばかりするのか?」と思われたことでしょう。私にとっては、ちょっとの違いが大問題だったのです。ただ間違いなく弾けばよいとは思えなかったし、今も思っていないのです。どうしたら、あの燃え上がりながら皆が一つになっていく感覚になれるのか。。。それを分かるまで人前ではやりたくないと頑なに思いすぎて外に出すという行為、もしくはその勇気がなくなっていたようでした。

ついにもうミュージシャン達は連絡をとっても返事も無く、練習に来なくなりました。私の思いは、伝えるテクニックがないために空回りし、Gさんは、それを黙って見ていました。ミュージシャンではない私に、バンドのありがたさや難しさを知っていく過程をすべて経験させようと思っていたのかな、と今は思います。「君のバンドやろ。君が伝えろ。」といつも言っていたのを覚えています。今となっては後の祭りですが、もしこれを読んでいる方で、同じように音楽とバンドのことで迷っている人が居られたら、とにかくLIVEをやることをお勧めします。気に入らなくても嫌でも恥ずかしくてもなんでも。何が何でも続けてやることで、何らか良い効果が現れるような気がします。たえず外に出す行為をとめないことが、精神的にもよいのではないかと思います。悩みだしてしまった人には難しいとは思いますが。こんな私のこんな小さい経験からの教訓です。

こうしてまたバンドへの夢がいったん途切れてしまったけれど、私はまだまだこれから!と元気でした。残った音楽友達は、masta.G。そして、Gさんと私について、運搬や宣伝を手伝いながら音楽を体験していた若い数人の人たちだけでしたが、皆で練習しながら次にまた誰か演奏をやってくれる人を見つけていくしかないなと思っていました。人づきあいと云うのは、なんて難しいものなんだろう、と前回と今回のバンドのことで思い知ることになりました。でも音楽は一人でやるものではないのです。自分のことだけでも気分の浮き沈みにアップアップすることがあるのに、越えなければならない壁が多すぎるなぁ、とその頃は思っていた記憶があります。そして、それがとんでもない重みとなって、この後の私の毎日に覆い被さってきます。とにかく、ま〜だまだ音楽の入り口にさえ至っていない私の日々が続くのでした。

〜つづく〜


chi-B&masta.Gの音楽はこちらでどうぞ。http://myspace.com/chibmastag

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posted by chi-B at 03:07| 大阪 | Comment(7) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

第十五話(1)わかれみち


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My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
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この第十五話を書くことは、私にとって難業になりそうです。この”音楽物語”をREALな記録として書き留めるために、自分のことをさらけ出すことは、第一話を書き終わった頃から、とうに決心はついていますが。暗く長いトンネルのような、これまでで最もしんどかった数年の話ですので、数回に分けて書こうと思っています。できるだけ簡潔になるよう、心して。

三ヶ月のHollywoodの音楽学校での日々は終わり、私とmasta.Gは家族とバンドメンバーの待つ日本へと戻って来た。アメリカでの日々の終わりごろから、私の耳には自分の内からの声が鳴り響いていた。「今までの練習ではアカン。自分の思うものに少しでも近付くためには、もっとちゃんとやらないとアカン。一体全体どうしたらエエのか今はサッパリわからんけど、間違っている事は確かに感じる。それを探すためにも、やれる事はとにかく練習・練習・練習しかないんや。」masta.Gさんが、Kaz h.が、口をすっぱくして伝えてくれるメッセージ ”全然できていない。聞こえていない。自分の身体で感じていない。”これらの言葉は、いったい何を指してるんだろう。

明確な回答を求めようとするこの頭の中にグルグルと渦巻く疑問を正当に理解して、きっと体得したいものが私にはあった。それが出来なければ、自分の大好きな、やりたい音楽にはならないことだけは、どうにか予測できていた。解決するには、理屈ばっかり考えても無駄。実行して、カン違いを指摘され、細かく修正しながら身体で覚えるしかないのである。それが分かっていても、考える、悩む、時間の無駄を繰り返す、落ち込む、また気を取り直してマイクに向かう。。。そんな日々で、私は他のメンバーにも同じ覚悟と努力を求めた。自分の作った歌を演奏してくれている限り、私たちは一つの一部の集合体だと思ったから。

「LIVEはコンスタントにやってる。お客さんもたくさん入ってくれている。
でも、このバンドは、私は、まだ音楽の入り口へさえも到達してない。
今は、masta.Gのドラムとアレンジで何とか形にしてもらってるだけだ。」

ワケがわからなくなりそうになりながらも、とにかく模索し続ける私、そして人並みはずれた厳しさで練習に挑むmasta.Gに、バンドメンバーは疲れていった。前までなら、いくら練習が厳しくても、後で冗談を言って気分を和ませていたけれど、もう話は違った。音楽の真髄に近付くには、笑って誤魔化してはいけない事があることに気付いたから。落ち込んで、悩んでどろどろになって、はいつくばっても、挫折を正々堂々と受けとめ、超えていくべき難所があるから。欲しいものは、その先にしかないから。肝心な所でオチャラケては、せっかく真剣になりかけた気持ちが無駄になるのだと思い始めていた。そこまで頑なになって、一体何を必死でやろうとしているのか、おそらく誰も真には理解してはいなかったと思う。

時は来た。ギターとベースとコーラスの殆どが辞めることになり、当然の結果として当時のバンドThe B-Funk All Starsが解散することになった。最後のLIVEが行われた日のことを再び蒸し返して、今また私が書くよりも、以前にホームページに掲載していたmasta.Gによる記事を、ここに残す事にする。もう何年も前の記事だが、その出来事を一番近くで見ていたmasta.Gが書いたものである。

「あの衝撃的な、第一期QueenB最後のライブは、見る人に、ライブハウスで、人前で、金取って音楽を見せる聞かせるだけではない、ちょっとばかし考えさせるライブであったので、これぞNEWS。

 ステージの上でギタリストがシバカれたのである。体の中にある気持ちの悪いものを、音楽の(演奏の)始まる前にすべて外に出したかったんでしょう。きっと、日本のミュージシャンシップや、いい加減な”楽しく、気軽に演りたいんですわ”みたいなものを、その時ステージの上でぶっ潰したのでした。目の前にいるお客さんに対しても、ライブハウスという、まだ日本では未熟児な音楽ビジネスみたいなもんにもイヤ気がさしていたんでしょう。それが笑えるようなもんであったら良かったけど、QueenBはクソマジメな人やから、それがそのまんま出てしまったんやろう。

 客もミュージシャンもお店のスタッフもひいてしまって、空気はビシィと止まって音一つ立てなくなり、ギタリストの頭をノートがバシィ!バシィ!!と二発、音を立てるのであった。特に二発目は大きな音を立てた。ウ〜ン、これぞある意味ライブかいな?『人間て弱いもんなんや。もっとよう考えて、マジメにやれ!』そして『殺しあうこの世の中はいやなんや。戦争はイヤやー!』といって、その日のライブは始まった。そう、いつものライブよりは、気のせいか引き締まった音になっていた。

 『芸術はバクハツだ。』 故 岡本太郎さんは言っていた。『舞台(ステージ)の下には、ものごっつう大金が埋もれとんのや。』 故 横山やすしさん。『からだに気つけてやりや』 辻川雅治。 『アメリカ行って暴れてこい。』 故 辻川元春。日本人やら、男や、女や、関係のない、けったいな世界を体験できる一瞬がQueenBのライブのそばにはころがっている。もっとリラックスした中に、シリアスでリアルで楽しく、ハッピーに、世界に向けて、外に向けて、『音楽されることを心からお祈りいたしております。』 故 辻川カノ。

 おいおい!生きてんのんは一体誰や。そこのキミ、ちゃんと生きてるか?お母ちゃんは心配してんのやから。お母ちゃんかいな。『CD、その時のライブも入ってる。もうすぐ発表。こうたって下さい。』オカンでゴメンネ。

 『ホンで、何枚こうたってくらはるんですか?』 カノ。」


(ご注意:この文章中のCDとは”QueenB&masta.G→∞”のことです。
 CDについては、HPにて。http://www.queenbmusic.com

その日、対バンで女性SAXプレイヤーのバックで叩いていたドラマーが、日本在住のAfrican-Americanマーティー・ブレイシー氏であった。彼は、私のステージが終わるや否や、楽屋裏へ大股でやってきた。こう叫びながら。「QueenB!! 良かったよー。ジブン勢いあるよ!日本語のラップはできるん?日本語でもやったほうがええよ!」と、彼は見事な大阪弁を話すひとでもある。彼は、ライブ後のバータイムにも、私とGさんを探しにやって来て傍の椅子に腰掛けて、こう話してくれた。「しんどい事だれでもあるよ。僕らもいっしょよ。皆おなじや。それでも次、次、てやっていくんや。それしかないよ。次のバンドはいつ?ライブはいつ?ライブ続けてやらなアカンよ。日本中の人がQueenB知ってる!て言うくらいにならなアカンねん。」彼の大きな瞳と、熱心な大声が、私の耳に今でも残っている。その日、バンド解散ライブの一夜の、唯一の救いでもあった。そして、彼と、同じくAfrican-Americanのキーボーディスト(お名前は失念してしまったけれど)が、私達の演奏を聴いて、一緒に歌いはしゃぐ声は、CDの中のカバー曲”Rapper's Delight”に、しっかりと録音されているので、今も時おり聴いては、あの夜の出会いを思い出す。ステージ上で乱暴を振るうなどという、とんでもなく恥ずかしい姿を見られたけれども、あの前向きな人は、きっともう忘れておられるに違いない。

この夜を境に、また私の中で何かが変わった。ここまでしてしまった以上は、もう絶対に後戻りはできないとも思った。ウソや雰囲気だけの音楽は、他人に言った以上に、自分にも許さない。これから、残ったmasta.Gと私で、新しい何かを一から作り上げていくしかない時に、自業自得のダメ押しのような、青天の霹靂(へきれき)としか言いようのない”それ”が、突如この身に降りかかってきた。内から湧き上がってきたというほうが正しいのかもしれないが。それについては、またいずれ。

〜第十五話(2)につづく〜



あとがき
いつもながらの長い文章、読んでくださった方々に恐縮しつつ感謝します。思われる事多々あるでしょうが、今となっては消せない事実です。先へ進むために、ここはどうしても書かずには居れませんでした。表現が下手ですので、もしも気に触る事があったとしたら、どうぞご容赦ください。



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posted by chi-B at 02:24| 大阪 ☀| Comment(7) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

第十四話 陰と陽でONE


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
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「ボーカルは、”マイク一本で何ができるか”や。」 
_masta.G


masta.Gと私は、学校からもらってきた時間割表を見つめてました。決められた基本の授業は出るにしても、他に選択自由なチョイスの中に、どんな授業があるのかを、話し合い想像し分析していました。私は、「俺のやり方で」といったmasta.Gに従う事だけを念頭においていました。masta.Gの前では、素直になるしか仕方のない私です。LIVEはやっているといっても数年の経験しかない初心者。音楽など門外漢もよいところ、ここは一度すべてを託して、できるかどうかをアレコレ考えず、まずは云われるとおりにベストを尽くすのみといった気持ちでした。「もう何でも来い…」といった感じです。ほとんど居直りの精神でした。でも胃がワサワサするような嫌な予感はずっとあって。

「これ、何や?」ひとつの授業にmasta.Gは目を止めます。「それは…」(うわ〜!やっぱり気付いたのか!!、と冷や汗かくような気持ちになりつつ。)それはフリースタイルjamの授業。この学校では比較的新しい分野のもので、メインのインストラクターは日本人のギタリストさん。他にドラム・キーボード・録音などのコースから、講師たちが集まるクラスです。ドラムマシーンから延々繰り出されるビートに、まず先生がギターのカッティングを乗せ、そこに次々とアドリブで先生たちが演奏を乗せていく。合間にソロのパートを入れるのは個人の自由。先生たちのお手本プレイの後、「我こそは」と思う生徒だけが、ステージ前のノートに自分の名前とパートを書き込むようなシステムなので、気の弱い人は絶対にプレイするチャンスは来ないようになっていました。「よっしゃ!これ行っとき。これが一番やれなアカンことやんか。」あぁぁぁ、やっぱり。「あのな、二番目に行け。一番目はみんな集中して聞いてないからな。三番目は飽きてるしな。二番目しかアカンで。サッと出て行きや。」

その学期第一回目の当日の授業は大きい教室が楽器を持った世界各国の生徒で満杯でした。約150人〜200人ほどのキャパシティーの教室に立ち見の生徒までいる中を見渡してもボーカルコースの生徒は誰一人いません。その授業は、私の現れるその日までは、楽器演奏の生徒たちの受けるものだったのでしょう。他のボーカル・コースの生徒たちは、この授業はまったく念頭に無く、隣の大部屋で行われる「ジャズ・ボーカル・テクニック」の授業に集まっていたのでした。先生のお手本プレイが終わり、第一弾の生徒グループの演奏もおぼろげに聴きながら、私はそっと、ステージ以外は照明が落とされた教室のステージ前にある、スポットライトのあたる一冊のノートに歩み寄り、名前を書きました。”name:B, course:VIT”。頭の中は真っ白でしたが、masta.Gから云われた言葉だけがコダマしていました。「好きなように、むちゃくちゃやって来たらええ。授業なんかでけへんようにしてまうくらいの気持ちで行かんかい!何も怖い事なんかあるか。つまみだされてもエエわと思え。大丈夫や。ぜったいにやれると思うからゆうてるんや。LIVEや。毎日がLIVEやて云うたやろ!最初の一週間で先生と学生の印象は決まる。チャンスは一回だけや。何回もあれへんで。」

一組目の演奏が終了し、各パートの生徒と先生がなにやら反省点などを話し合っている中、ギターの日本人講師が件のノートを手にとって英語で次の生徒を呼び出しました。私の名前を見つけてふと言葉が止まって、「みんな、初めてVIT(ボーカルのクラス)からプレイヤーが来たようだ。名前は…B?」「Bです。」そう云って立ち上がった私は、ステージに上がりました。何のリリックも頭に無いまま。先生は、そのとき私を自分と同じ日本人だと気付いたと思います。不思議そうに見ながらも、「Bはテキトウに自分で考えてどこでも歌ったらいいから。」同じビートのループが流れて、各自演奏が始まる。そのとき何故か私は日本語の喋りで口火を切りました。何といったのか正確には記憶していませんが、「日本から来てるみんな、私はQueenB。なんかオモロイ事やってると聞いたから遊びに来たで。○○君(これはその日本人講師の名前。なんでクンよばわりしたのかは、もう自分でもわかりません。急にそうなってしまったのでした。)なかなかエエ仕事してるやん。ほんなら一発いかしてもらうわ。」そこから、ラップのような語りのような英語で「世界中のみなさん、はじめまして。みんなグッドルッキンやんか。いきなり生意気で悪いけど、ROCKは学校では習われへんもんちゃうかなぁ。」といったところまで覚えています。後は、それぞれの演奏者にソロをふり、わーわーわーわーラップもどきをやり、全員を煽ったことしかもう覚えていません。終わったとき、客席にいた学生たちは立ち上がって、ドラマーはスティックをカチャカチャ打ち鳴らし、他の人たちは歩み寄って握手を求め、Hugをして、「You are GOOD!」とねぎらって迎えてくれました。失礼にも私がクンよばわりした先生も「君、イイねぇ〜。」と云ってはくれましたが、本当はどうなのか、事前の緊張のあまり録音テープを押す事も忘れていた私には、さっぱりわかりません。今思うに、別段なにも凄いことは出来てなかったはずです。ただ熱意だけは通じたようでした。そして、「変わった日本人が来てる」のNEWSは一気に駆け巡って、廊下を歩いていたら声をかけてくる外国人の生徒たちが増えました。

これ以外にも、masta.Gの書いた「日本人の生徒へ。学校から飛び出して、ラジオで”今”の新しい音楽を聴いて、LIVEへ足を向けて生の音楽を体験すべき!」という文章を、学内の掲示板に貼り出してビックリされたり、自分ひとりでは得られないような色んな経験をしましたが書ききれるものではありません。もう充分長い文章になっています。(苦笑)この学校での経験は、今までにも記事にしたことがあります。もしも、興味のある方が居られたら、長い文章ですが、どうぞこれらの過去記事を読んで下さい。

「音楽した思い出」
http://chib.seesaa.net/article/8050441.html

「言い訳するな!音楽の鉄則」
http://chib.seesaa.net/article/8597649.html

「ゴスペルの精神」
http://chib.seesaa.net/article/8737722.html

「ライブ男G&外国人ミュージシャン」
http://chib.seesaa.net/article/8978326.html

「B、蓋を開けろ!」
http://chib.seesaa.net/article/9770995.html

「何を伝えるの?」
http://chib.seesaa.net/article/12336778.html

「FAKEは×!」(FAKE=作りごと)
http://chib.seesaa.net/article/14259492.html

「ハートから」
http://chib.seesaa.net/article/18474262.html

masta.Gも、私が何とか話をつけて(ここも話せば長くなるので割愛しますが)毎週日曜日には、何時間でも好きなだけドラム・ラボで叩けるようになり、週末は一緒に学校内で二人での練習ができました。ラジオをかければ、全米で大ヒット中のブラック・ミュージックが流れ、それを大音量で聴きながら、二重にガラスの入った窓の、外で風に揺れるパームツリーを眺めながら練習することは、ほんとうに気持ちよくて、ありがたい経験をさせてもらいました。「ハリウッドにいてるんや。ハリウッドでマイクを握って叫んでるんや。」という感動は大きなものでした。夢のようでもありました。そんな三ヶ月は、あっと言う間に過ぎていきました。素晴らしい演奏能力を持った先生達と仲良くなり、LIVEにも車で迎えに来てもらい、ぜひとも一緒に録音したいと仲間として扱ってもらい、実り多い時間でした。「小さい頃にオルガン教室に通って、小学校から高校まで学校で音楽の授業はあったけど、私は何も習った気がしていません。正当な音楽教育は受けてないのに等しいんです。」といった私を、「それは素晴らしい!まったく無垢のあなたに教えられる事を光栄に思うわ。」と云ってくれた先生もありました。

でも。

帰国が近づくにつれて、私の中には消えない思いが残っていました。「三ヶ月こうして通って、オリジナルの曲にも、外国の人たちは立ち上がって踊りだしてくれた。云いたかったメッセージを書いた英語もわかってくれて、テープも欲しいといってくれたけど、それでも、私の抱えている難点は何一つ改善されてない。わからないことは、わからないままで、何ひとつ解明されてない。これじゃ、上達なんてしてない。友達はできたけど、シンガーとしての技術は、いっこうに進歩してないんじゃないか。」という気持ちです。LAに住んでいたギタリストさんKaz h.からもmasta.Gからも、「まだ全然できてない」という言葉ももらっていたし、もちろん云われるまでもなく自分が一番、これじゃダメだと分かってもいました。

贅沢だといわれるかも知れませんが、ただハリウッドで勉強する経験だけではまったく満足できませんでした。私には切実な願いがあったのでした。もっと上達したい。気構えが熱いだけでなく、海外でもプロフェッショナルとして通用するだけの基本の最低限の技術を身につけて、気持ちを凝縮して音にたくせるようになりたい。ならなくちゃ話にならない。ずっと悩み続けていたGrooveは?発声は?体の動きは??リズムは?ビートは?その何一つとして、理解してないじゃないかと。日本にいたときと何ら変わってないじゃないかと。自分を責める心も湧いて来ていました。(これじゃ、ダメや。まったくダメやねん)。いい思い出だけが残り、それだけなら、私には意味は小さいのでした。

最後の授業、最も信頼していたAfrican-AmericanのR&Bシンガーの男性の先生が歩み寄ってきて、「QueenB、お陰で今学期は楽しかったよ。君が帰ると寂しくなるなぁ。」と、私に話しかけてくれたとき、わたしはその思いを初めてぶつけていました。「これじゃダメなんです。もっと身に付けたい事があります。一緒に音楽をやっている人たちにも言われています。1e+d、2e+d、chi-chi-chi-chi, chi-chi-chi-chi…それが全く身についてません。」先生は、ちょっと深刻な顔になって、私を改めてじっくり見つめてこう云いました。「パルスか…。君はそれが出来るようになりたいのか。」そしてしばらく考えた後、「It'll come。(やって来るよ)」と。そう、masta.GもKaz h.も正しかったのです。それは自分の体で感じるものだから、学校では学べないだろうね、と、行く前から言われていたその通りでした。

こうしてハリウッドでの日々は終わりを告げ、数人の気の合う先生たちとはとても仲良くなり、「一緒に金持ちになろうぜ!」と言い笑い合い、またある先生は、「QueenB、俺が誰かを殺す前に早くここから救い出しに来てくれ〜」と冗談まじりにいっていました。masta.Gが云っていた通り、彼らは、今は先生をしているけれども、本当はミュージシャンとして成功する夢を抱き続けている人たちだと証明されたようでした。充実はしていたけれど、それとはまったく別の次元で、「褒められた、喜ばれた、楽しかった。」と浮かれポンチではいられない、ダメな現実がそこにあることをヒシヒシと感じるばかりでした。

学校での日々から得たもの、そして、まだ得られなかったものへの意気込み、これからの自分への課題…いろんなものを胸に秘めて、また日本へと帰っていく私でした。そのとき、もしかしたら、自分の身の丈に余る荷物をしょいこんだのかも知れませんでした。だけど、希望がいっぱいあって、あまりの思い込みの強さに気が付かなかったのかも知れません。日本に帰ってから、さらに深く音楽へとのめり込むことを、必要以上に意識しすぎたのかも知れません。アメリカで私の心にどんな変化があったのか、そんなことは何も知らない他のメンバー達に伝えなければならないドデカイ課題を持った”QueenB”と、世界中どこに居てもいつもながら音楽には特に厳しいmasta.Gが、帰国の途についていました。三ヶ月は長く、厳しいmasta.Gから遠く離れて好きに音楽を練習していた人たちとの心の温度差は、思ったよりも大きくなっていたのかも知れません。私にとってもこの後の経験は、人生観を変えるほどのものになるのです。言葉でしか分からなかった、心の痛み、みたいな物を知る時が近づいていました。

〜つづく〜



P.S.,ものすごく長い文章になってしまいました。もし頑張って最後まで読んでくれた人がいたら、心よりお礼をいいます。ありがとう。

chi-B&masta.Gの音楽はhttp://myspace.com/chibmastag


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posted by chi-B at 01:29| 大阪 ☔| Comment(5) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月03日

第十三話 マィネィムィズQueenB!

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
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私が約5年ほど前に、短期間音楽を学びに行ったハリウッドにある小さな音楽学校。その学校は東京や大阪にも分校があって、日本の生徒たち(ほとんどが10代、20代くらいの若い男女で)が外国からの講師や日本人の講師に習っているそうです。全員かどうかはわかりませんが、数ヶ月に一度、百人近い団体さんとなって留学生としてハリウッド校にやってくる生徒も大勢居ます。もちろんアメリカ各地から、そして世界中から、LAで音楽を勉強しようと様々な趣味やいろいろな楽器、そして音楽の好みも十人十色な国際色溢れる生徒たちで学校はいつもにぎわっています。masta.Gが、2・3回時期を変えてパーカッション(ドラムはパーカッションというコースに入るのです)生徒として通っていた学校でもありました。

「君のやり方を棄ててくれ。僕のやり方でやって来てくれ。

 僕がスポンサーや。僕が留学生活をプロデュースする。」


こう云われて、悪寒というほどでもないですが、これからやって来る説明へのゾゾゾ〜っとする謎の予感が走りました。そんな私の気持ちはとっくにお見通しのmasta.Gは、こう続けました…

「君のやり方はな、僕は見なくてもわかるねん。キミはまたクソ真面目にちゃんと授業の始まる前から教室に入って、云われた宿題を必死こいてやって、がんばって、教えられる事を何でもかんでも覚えてやろうとして、授業終わった後でも先生に質問したりするようになるやろう。君のやり方はそうやろ?鍼灸の学校へ行ってるときにもう充分以上そばで見てたから分かるわ。想像できる。たいていの日本人の生徒はそうやねん。”いい生徒”になろうとしてる。それに向けて頑張ることが”善い事”やと日本で教育されて洗脳されてるからな。でもな、おもしろないねん、音楽は、それでは。真面目なんはもう要らん。むちゃくちゃファンキーな、ぶっ飛んだオモロイ奴で居て欲しいんや、俺は。」

げげげ…で、一体何をどうしろと???(私)

そこから延々と続いたmasta.Gの話しを大体まとめるとこうです。

●音楽を習いに行くと思うな。このすべての行動は、キミ自身に、音楽やるのに外国人でも何でも関係ないわ、と思える度胸をつけるためと、僕らの音楽や存在を知ってもらうための初めての外国でのプロモーションや。音楽は、学校で習うもんやない。ぜったいに違う。それを忘れるな。先生もみんな本当はミュージシャンや。仲間やと思ったらいい。正直な気持ちはきっと、教えてなんか居てるより、演奏してミュージシャンとしてアメリカで大成功したいと思ってる人らやから、友達になって来い。歳くってるからできるはずや。コネクション作ってきたらいい。けど、ものすごいウマイ人らがいてるから、そこはちゃんと見て来い。日本ではめったに体験でけへんような凄いプレイを聞けるチャンスが来るから、それは絶対に見逃すな。

●クソ真面目なんはオモロないねん。一応、カリキュラムはたくさんの内容をカバーするようにできてるけど、俺らは全部が欲しいわけじゃないんや。だから、そんなに真面目にいわれるままに宿題もしなくていい。俺が授業の内容も教科書も全部チェックする。やるべきことと、やらなくていいことを分けるから、それに従って、その通りにやってくれ。俺が決めるとおりにやれ。俺は芸大の音楽工学で夏期講習のクラスを教えてたんやで。信用してその通りにしたら大丈夫やから。

●ハッキリ云うけど、俺の経験から言って、日本の生徒たちは弱い印象があるねん。日本人ばっかりでかたまって、何ヶ月たっても、アメリカ人やら他の外国から来た生徒らと、いい音楽仲間にはなってないことが多い。ちょっと慣れてきても、英語で話しかけられたり、「Hi.」とか云うだけで、ものすごい緊張してる。敏感な外国人は、そのひく気配を感じ取ってる、俺はいつもそれが悔しいんや。なんかこう腹立つねん。下手糞でも何でも、明るく偉そうにしとったらええんや。俺は、一人でも、英語があんまり喋れなくても、がんばったで。カントリーの授業では、偉そうなキライな講師が「マルコムXのTシャツ着てカントリー叩くとは、これはケッサク!」といいよった時には、サッと立ってスティック放って黙って教室から出てイッたった。そいつが、廊下で椅子を運ぶのを手伝えと言うてきたときも、日本人ばっかり集められて運ばされてたから、断ったった。あいつの給料は俺が払ってるんやからな。ええ先生もおるけど、なめとる奴もおるんや。だから、デカイ態度で居ててくれ。「なんやコイツ〜??」と思われるほど、堂々としててくれ。日本人にもこんなヤヤコシイのが居てるんや、と思い知らして来てくれたらエエねん。

●毎日がLIVEやと思っていけ。プロの自覚を持って授業へ行け。経験は浅くても、少しでもLIVEやって金を受けとってるんやからプロやと云っていい。

●これすごく大切やねんけどナ、俺も学校の中でドラムを練習させてもらえるように話しつけてくれ。日本に帰るまでの三ヶ月、何にも練習してなかったら鈍るし、俺もアメリカでドラム叩きたいやん。あの学校はセキュリティーのコワ〜い兄ちゃんがピストルもって24時間見張ってるけど、誰か見つけて何とかうまいこと話したら入れてもらう道があるはずやから、そこは英語はなせるねんから、どうにかしてくれ。大丈夫や、金は払ってるし、ラボ(スタジオをこう呼んでいます)は山ほどあって、いっぱい空いてるのも知ってるから。


…き、きた〜。と思いました。冷や汗が出てきそうな要求の数々に武者震いが出るような。正直、ちょっと逃げたくなりました。しかし、もう学校にお金は払い込んで、何よりも、もうここはハリウッド!逃げるなどどいうチョイスは非現実的です。そして、もうひとつ。私は案外、ダメでモトモトと居直って、そういうことに挑戦するのが嫌いではなかったのでした。

「わかりました。やって来ます。細かい指示はまたして下さい。」(私)

「ま、大丈夫やと思うわ。始めの何回かは緊張するけど、結局は、
”あ〜この方が楽で良かったわ!”って云うのがもう見えてるんや。」


日本でギリギリまでLIVEがあったために、学校が定めた正式な入学オリエンテーションには間に合わず、2・3日遅れて、一人オリエンテーションをしてもらいました。まず始めは日本人スタッフと話をし、そこですでにmasta.Gは、持参していった私たちQueenB&The B-Funk All StarsのLIVEのビデオを渡して、「これ見ておいて下さい。今度あったら感想が聞きたいです。」なんて云っています。ぽかんとされていたように見えました。それから先生と会って、どの授業を受けるかなどのガイダンスがありました。そのとき面接をしてくれたのは、アフリカン・アメリカンのとてもファッショナブルな男性R&Bボーカリスト、その名もMASTA(マスタ)。もうその名前だけでmasta.Gとまずは意気投合でした。

そして私の自己紹介となったとき、まず一発目のBLOWのときが来ました。

Hi. My name is QueenB.

I'm a professional singer from Japan.


(こんにちわ。私の名前はQueenBです。日本のプロのシンガーです。)

QueenB????と一瞬驚いてから、MASTAの顔に大きな笑顔が浮かんで、「会えてうれしいよ、QueenB。今夜ノースハリウッドのレストランで、僕のLIVEがあるんだけど、Gと二人で見に来てくれるかい?(笑)」と、この日からお別れの日まで、いつもちゃんとステージネームで呼んでくれました。私の選んでいたコースは、多くの日本人がやっている一年のコースとは違い、お試し的にすべての学科(ドラム、ギター、ベース、キーボード、録音技術などなど)のどこへ入っても良いというコースでしたが、一応、基礎となる授業は決められます。私の望むアフリカン・アメリカンの音楽を教えている先生のクラスと、他にもいくつか、音楽セオリー、イヤー・トレーニング、キーボード、ステージ・パフォーマンス、バックグラウンド・ボーカルズ、(MASTAはこれを教えていました。日本で言うところのコーラスです。)、ステージ・クラフト(これもMASTA。即興で歌を作るクラスです。)と、完全プライベートのボイス・トレーニングが加わりました。このプライベートの講師も数々居られる講師の中から、私のニーズに合うようにと、アフリカン・アメリカンのブルーズ・シンガーの女性を選んで下さいました。

「私の名前はQueenB。B(ビー)と呼んでくれてイイです。」

この自己紹介を、始めの一週間すべてのクラスで繰り返す事になります。そのたびに、ザッという音と共に、振り返ったクラス中の目が私に集中することになります。そして、大風呂敷広げたみたいな自分の、その後の行動にさらに責任がかぶさってくるかのようなプレッシャーも、私のこの顔に、全身に、張り付いたように思えたものでした。ここから三ヶ月の、楽しい楽しい?留学生活が始まるのでした。とにかくCRAZYになるしかなかった日々の物語です。


〜つづく〜


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2007年10月07日

(物語の付録として)

〜日々の生き様は音楽に出るからこそ〜

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私のことを深く、長く、知ってくれているmasta.Gは、私が肝心なときに黙る…という態度をするのを見るにつけ、よく注意をしてくれました。言わなくてもいい事を偉そうにわめくなら、言うべき事を、言うべき時に、言うべき相手に向かってハッキリ出せ!といつも言われ続けていた時期がありました。私を鍛えるため、という特別な意図はなかったとは思うのですが、これまでの生活の中でこんなこともありました。。。

アメリカの電話会社さん、これじゃ電話代は払えへんよの事件:

アメリカで引越しをすることになり、実際に頼んでいたよりも数日早く電話回線を切られたために、日本で留守番しているBAGUSの店番の人とのやり取りが出来なくなり、仕事に差支えが出たことに激怒したmasta.Gは私に、「すぐ電話会社に電話をして、そっちが間違って私のほうに損害が出ているのだから、今月は料金を払わん!と納得させろ。」と私に命じました。電話は切られているので、サンタモニカの街中の公衆電話から話をすることになりました。

はじめの数回は、まったく相手にされず、がっくりしてアパートに戻った私に、「こっちの言い分が通るまでや!ガキの使いか!!相手に納得させるまで何回でもかけろ。負けて帰って来るな。」の言葉が投げかけられ、それから三日間、何度ものクレーム電話と電話会社側の言い訳のやり取りがあって、上司から、またその上の上司へと電話を廻して行き、ついに届いた請求書が「$0.00」ZEROドル!(本来は数百ドルになる計算でしたが。)にするまでに、朝も昼も真夜中も、ホームレスのたむろする辺りにある公衆電話で必死になりながら、ガツンガツンに電話をしたことを忘れられません。

ホームレスさんも呆れて見つめる中、英語のネイティヴスピーカーでもなく、最後にはしどろもどろな私は、電話会社のエライサン♂に、「辻川さんとは一体ぜんたい何物なんです?」と聞かれて、「電話機のオーナーです。」という珍回答をしたものです。(嘘ではないもんね?電話機を買ったのはGさんですもん。)どこをどう理解したのか、よくマケてくれたもんだと、今も不思議であります。もう二度と嫌ですけどネ。笑

日本の街頭演説に演説し返すの件:

この出来事があった頃は、役所関係に云いたいことが特にあれこれあった時期でしたが、選挙前の街頭演説にやってきた、どこだか忘れた政党の立候補者に、マンションのベランダから、「お〜ぉ!!俺は、この街のことでいっぱい話したいことがあるんや。そこで待っとけ〜!」と大声で声をかけたGさん。「おい!キミも来い!」と私に声をかけて…。前の公団住宅の広場まで走って付いて行った私。立候補者の前に立ったと思うや否や、「ほら!キミが話しせえ。なにもかも全部この候補に話せ!」とのお達し。。。げげ〜っ私が???となりながらも、必死でこのときも話をしました。横でGさんは、鬼瓦のような顔をして見つめていたのでした。後から、私の話し方のどこが弱いのか、というディスカッションみたいなものまでありました。

こういう事が、Gさんの近くに居ると頻繁に起こります。それで、私は、そうとう鍛えられてる気がしています。これも、廻りまわって音楽に関係あることであるのも確かだと、今は思っていますが。かなり冷や汗かいて今に至るのだなぁと、しみじみ記録しておきましょう。

今日書いたのは、私がやった中の一部だけです。他にも山ほどこんな事はあります。ただ、いつも私に言わせるわけではなく、Gさん自身が火がついて語りだすとノン・ストップです。そうとうな根気と精神力の持ち主であります。ここにも書いてみたいほど、ものすごい武勇伝?というか、痛快な逸話がいっぱいありますが、勝手に書いていいのかわからないので、今日は止めておきます。音楽をやるまでの十数年間は私は横で見ていただけでした。相手が誰であろうと、スゴイ迫力でマシンガンのように話すGさんを、ただ見て・聞いているのと、自分で実際に話すのとは雲泥の差であります。この世の中、やってみて始めてわかることがい〜っぱいありますねぇ。思っているだけと行動することとは、まったく違う。100パーセント「違うもの」です。

そして、このことは、音楽をやる上でホントに大事な事なのでした。しかも、私は云われて渋々やっただけです。腹の立つことがあったとしても、「ああも云ってやりたい。こうも云ってやろうか。」と相手の聞こえない所でコチョコチョと愚痴るのから、きちんと卒業しなくてはならないなぁ、と自分に言って聞かせております。これは、世に言う「キレる」とは全く違うレベルのお話ですので、お間違いなきようお願いします。

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今回は実録・読み物シリーズの付録のような記事でした。これを踏まえて次回のアメリカの音楽学校での生活の下りへとつないでいこうかなって、思っている次第です。読んでくれた人にPEACE!!


追伸:本日の写真は写真家、糸川さんの撮影して下さったものです。
   まさにリアルに撮れていることに、私はもう脱帽〜です。



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2007年09月13日

第十二話 わがままでゴメンなさい

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

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同時多発テロから早6年たったとのニュースを聞いて、そうそう、この実録シリーズの第十二話を書く時期は、「今」だと背中を押されましたので続きを記録しておこうと思います。>毎回、このシリーズに目を通して読み続けてくださっている皆さん、ありがとう。今日もまた長々とした私の駄文にお付き合い願います。

「アメリカの音楽学校に入りぃな!合ってると思うわ、君に〜。」

この意味深な発言を聞いたのは、初めてではありませんでした。masta.G自身がHollywoodの学校に通っている時期から、ときおり、「僕は学校は大っ嫌いやねんけど、君やったらちゃんとやると思うわ。そういうの得意やんか。代わりに行く?投資したるわ。元取るように頑張ってくれるやろ。」とか、冗談めかして口にすることは、しばしばありましたが、この実録を読んでくださっている人はご存知の通り、私には音楽なんてやる気はなかったもんだから、まったく冗談にもならないゎ。と思って爆笑しながら聞き流していたことが何度もありました。自分には金輪際関係のない世界だと思っていた私でした。Gさんを車で迎えに行ったり、英語で話しするのが難しかったGさんの代わりに、アドバイザーさんに会いに行って話したりはしたことがありました。そのときは、スーツにハイヒールといった、ミュージシャンとはまったく異なるスタイルで、学校内をコツコツと歩くと、異質な物を見るような好奇な目でじろじろ見られたことも覚えています。

ただし、今回は状況が違います。もう初心者として音楽をやり始めている私ですから。ちょっとは考えてみたりしながらも、口をついて出る言葉はやっぱり「無理です!無理無理!LIVEをやるようになったと云っても、楽譜やら理論やらはちんぷんかんぷんで何一つわからんのは何も変わってないし、費用をサポートしてくれはると言っても、何十年もお店をやって作ってきた大事な大事な(そう沢山あるわけでもない)ナケナシのお金を無駄にさせてはダメだし。」と、また二の足を踏んでいる始末でした。でも!!です…曲りなりにも少しはLIVEもやってきて、これからずっと音楽を続けようとするならば、恥ずかしくても何でも、アメリカの初心者レベルの音楽教育を、自分も一度くらいは経験してきた方がいいのではないのか???という声が自分のうちで大きくなっていきます。

「一回、ハリウッドの僕の行ってた学校に見学にイコか?」
「ついでにLAでプロモーション・ビデオも撮ろうや。おもろいで。」

このGさんの勧めに、ついに「話きくだけなら行ってみようかなあ。」なんて、応えてしまう自分が居ました。さてさて、その頃、私の家族はもと居た家を失い、引っ越した後のドタバタで難民キャンプのような状態であって、気楽に音楽などやっていてもらっては困る!と母も周りの人々も思っていたのでした。当たり前です。アメリカで身につけてきた鍼灸の技術が日本では役に立たない、せっかく取らせた宅建免許も使うつもりはないらしい、なら、何でもいいから仕事をして、家に一円でも入れてくれと、親は思って当たり前です。ただ、私はもうそれは出来なかった。何か他に仕事をやりながら音楽するのはNO!とmasta.Gから、しかと云われていました。(数人に英語の歌を教えて少しだけの収入は入っていましたが、仕事というほどのことではなく、ほとんど練習の延長でした。)音楽自体まるで出来てない時に他の仕事をしたら、そっちが中心になり、お金儲けに重心が置かれていくのが目に見えていると。私はそんなに器用な人間ではないからという理由です。m(_ _)m 悩んだ母はこっそり親戚に相談していたらしいです。「困る。音楽を止めて働いてもらわないと困るし、将来も不安で。」と。これも有難い親心と、母親の最後の必死の抵抗だったでしょう。それを知ったGさんは云いました。

「お母ちゃんにLIVEしてる姿を見せへんからアカンのや。

 ちゃんと招待して、見てもらえ。絶対に応援してくれるから。」


葛井寺の境内での野外LIVE。ここに親戚の伯父さん夫婦と一緒に母が見に来ました。私は、マイクを持って、歌って動き回りながら、詰め掛けてくれた数十人のお客さんに向かって恥ずかしい気持ちも忘れて、こう叫んでいたのを覚えています。「あそこに居るのは私のお母ちゃんやねん。ありがとう来てくれて。」「ごめんな!親不孝して。これからもよろしく頼むわ〜!」周りの人が私ではなく、母に拍手を送ってくれていた姿を忘れられません。それから母は、来れる距離のLIVEには、杖をついてでも見に来てくれていますが、最近は近くでのLIVEがないので、しばらく見てもらっていませんね。

6年前の今頃、BAGUS(もう殆ど最終の時期に入っていた)を人に任せて、二週間あまり、プロモーションビデオの撮影も兼ねて、ハリウッドの学校へGさんと共に行き、プログラムの説明を聞いたり、教室やスタジオを見学したりしてきました。ちょうどバンドのギタリストも学校が休みだったので、同時期にLAに来るようにと薦めて、LAに住んでいるGさんのお友達から、数回だけですがギターも教えてもらうようにとお願いもしました。彼にも良い経験になったことと思っています。肝心の私の学校は、何回も潜入したことはあったので緊張はなかったのと、なんだかやっていけそうかもなぁ〜と見えました。また手続きは日本からすることにして、プロモーションビデオと称してたくさん撮影したのも楽しかったです。ビデオは、まだG宅で出番を待っています。稔りの多かった滞在期間が終わって、日本に帰って来た”次の日”が、同時多発テロと言われる大事件の起こった日だったわけです。テレビ画面を見て、ぼうぜんとしたことも忘れられません。

さて、長くなっていますが、もう少し。。。

葛井寺境内でのLIVEのとき一緒に来ていた伯父は、写真家の糸川さんの弟さんでした。私は、弟さんであるこの伯父を、小学生の頃から知っていますが、お兄さんが写真家であるとは知りませんでした。聞いていたのでしょうが、それが、音楽シーンを撮影し続けてきた糸川さんであることを、知りませんでした。弟さんは、音楽には詳しくないために、写真家で、音楽界にもなじみの深いお兄さんに、一度LIVEを観にいってやってくれ、と頼んでくれました。そして、写真家 糸川さんが弟さんの車に乗せられて、堺のLIVEへと足を運んでくださいました。

その日のLIVEは、バンドの頃で、ワンマンLIVEを、なんと3時間近くもやっていたと記憶しています。途中、アフリカン・アメリカンのDaTreeが書いてくれた「Divine-Being(神々しい存在への感謝の気持ち)」を題材にした詩を読んで訳したり、延々と好き勝手にやっていた頃のことです。LIVEが終わってから、弟糸川さんにお兄さんを紹介してもらった時、masta.Gが驚いて、「え!糸川さんって、あの写真の糸川さんなんですか??」と思わず言っていました。糸川さんはニコニコ笑って、私を真っ直ぐ見つめて、「やってるやん!^^」と云って下さいました。そして、御自分の脚本・撮影された「明日は」という映画のビデオと、大阪から東京まで徒歩で行かれたときの随筆と記録を記した著書「Paradise Road38days 東海道徒歩38日間ひとり旅」を手渡して下さいました。この本は、その数年後、私が人生最大の挫折に直面したとき、とんでもないパワーで支えてくれた大事な本です。そのことは、またいずれ書く機会もあることと思います。
参照 (このページの下のほうに、この本に関する記事があります。)
http://www.queenbmusic.com/fareasthiphopsoulqueendom/id61.html

糸川さんは、この日、素敵なお客さんを一緒に連れてきて下さっていました。今は亡き、素晴らしいソウルフル・シンガー砂川正和さん、です。砂川さんは、Divine Beingの詩を気に入ってくださり、masta.Gさんに「QueenBのこと、ちゃんと育てたってな!」と云って下さったそうです。光栄であり、懐かしい、ありがたい記憶です。忘れることは出来ません。糸川さんは、帰りの車で、弟糸川さんに云ってくれたそうです。「あれは、やらしてやらなアカン。やめさせたらアカン。」そして、私にもメールで、「王道を行って下さい。」とメッセージを下さいました。数日後、はじめて写真を撮って頂きにイトカワ・スタジオにお邪魔した日、masta.Gが言いました。「この子、アメリカの音楽学校に行かせようと思ってるんです。」糸川さんの返事は、

「それはいい。今行っておくのは大事やと思いますよ。」でした。

次の年の4月から、ハリウッドの学校へ短期留学することが決定しました。さてこれが決まって、いざ行く前になって、masta.Gが私にあることを云います。

「あのな。頼みがあるねん。」

「自分のやり方を棄ててくれへんかな。今までの方法は忘れてくれ。」

「学校行ったら、僕のやり方で、僕の云う通りに動いて欲しいんや。」

(ホラ来た〜!一筋縄ではいかないのがmasta.Gとの日々です!)

はてさて、そこから始まった”僕のやり方 by masta.G”とは。。。

私の、自分への挑戦がまた再び始まるのでした。


〜次回につづく〜



posted by chi-B at 03:16| 大阪 ☁| Comment(2) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

第十一話 外国からの人々

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。


「音楽やって生きてたいな。もう他のことは嫌や。

 生きてる内にどれだけたくさんの人の前で、何回LIVEをするか、

 それだけが楽しみやわ。もう音楽だけでエエねん。

 外国人の人らにも沢山見てもらいたいなぁ。」


                       _masta.G


こうして文章にすることにどれほどの意味があるのかは、正直なところ今の私にとってはさほどたいした問題ではなくて、ただ自分の生きてきた道の一部を切り取りながら、そうするようになった深層心理ともいえるかもしれない訳や、そのときの、今よりは幼い自分の姿から、まだ何かを学べるかもしれないという理由だけで書き続けています。毎回、ちゃんと読んでくださっている方が居たとしたら、ありがとう。ご苦労サンです。私の家が無くなって、引越しも終えた頃、ちょうどライブ・ハウスBAGUSもついに25年の歴史を閉じようとしていました。藤井寺にBAGUSが出来たこと、私以外の人にすれば、何気ない出来事でしょうが、私の人生は大きく変わったわけです。まさか、音楽を仕事として生きていく人生を辿ることになるなんて、爪の先ほども思っていなかった私でした。お話はまだ始まったばかり、音楽の扉の在りかを探す旅の只中のような日々が続いていました。


BAGUSの無くなる少し前に、masta.Gは私に「店の壁やらドアやら、ぜんぶ色を塗り替えるわ。好きにしてみたいねん。だから色を選んでくれへんかな?」と言いました。色にとても執着ある私は、濃い目の青紫が大好きで、それはきっと幼い頃に病院で見た注射器のシリンダーにあった色が心に焼き付いているからかと思います。そして、もう一色は、それを引き立てるようなオレンジ色。私の選んだ色では、きっと街の人がギョッとするような色になってしまいますヨ、と言ったけど、「それで構わんねん。好きにしなさい。」とのお言葉に、店の中の額縁から、トイレの鏡の周りから、何から何まで好きな色に染め終わった頃、関西SCENE(かんさいシーン)という雑誌の取材を受けることになりました。


その頃、私たちのバンドは外国人の集まる店に出演することを、ひとつの目的としていました。「なんのために英語でやってると思う?外国人にも聞いて欲しいからに決まってるやん。」という気持ちが胸に強くあったのでした。大阪ミナミの外国人が集まるThe Cellerというバーでの無料ワンマン・LIVEは、メンバーの友達が友達を呼び、店には入りきれないほどのお客さんでわんさか満員でした。100人は軽く越していたと思います。大勢の日本人に混じって、関西に住まう外国人のお客さんも、ほろ酔い気分でLIVEを見てくれています。フリーというのも手伝って、楽しそうにフロアで身体を揺らしてくれるし、静かな曲でも外国人たちは抱き合って踊ったりするのが、演奏している私たちにとっては、嬉しいものでした。終わって、女の子に呼ばれて外に出てみると、そこに関西SCENEからLIVEを覗きに来ていた外国人男性が待っていました。インタビューを掲載してくれるかもしれないとのお話をもらいました。後日、約束の時間に、綺麗に塗り替えられたBAGUSに、やってきた記者Anil R.さんは、録音しながら英語でのインタビューを始めました。


ゆっくりとトークも出来て、彼とはとても打ち解けて話すことも出来たのがありがたかったです。LIVEの様子をレポートした記事とインタビューへの答えで書きあがった記事は2001年9月号の関西SCENEに掲載されました。LAで鍼灸師としてリハビリ・センターで働いていたこと、それが突然の親の病気で日本に帰国することになって、BAGUSで英語や英語の歌詞を教える仕事をやらせてもらうようになって、さらにmasta.Gの誘いで音楽を作り始めることになった経緯を紹介する記事でもありました。外国人へのメッセージや、音楽の深い話まで何もかもカバーしてくれてあります。masta.Gもなんと英語でのインタビューに英語で答えていました。普段めったに(日本語でさえも)話さないのですが、大事なところはしっかとカバーするmasta.Gです。


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記事の下に打ち込んである文章は、このときインタビューアーから送られて来たFAXにあった彼の文章です。それを先日見つけて、私はしばし佇んでいました。

They are normal Japanese. You are not.
You are IN your own society but have an OUTSIDE view.
That is an extremely rare thing.

You stand up tall. You have strong opinions.
Look at this woman! Feel her energy.
She is something different.


彼らは普通の日本人だ。でもキミは違う。
キミは、自国の社会の中に居ながら、外から物事を見られる。
それは、とんでもなく珍しいことだ。
キミは真っ直ぐに立ち上がって、強い意見を持っていて、
それは日本では珍しいエネルギーなんだ。
この女性を見て!彼女のエネルギーを感じて。
彼女は何かが”違う”んだ。



この言葉は、私の心を揺さぶりました。そう言って下さる事もありがたいと思いました。励みになったのです。何かが通じかけているかもしれない、という気持ちもガソリンみたいなものですから。ほんとうは日本には、しっかりとした意見を持った人々が山ほど居て、私など、小娘のたわごとなのは百も承知しています。たまたま、たいていの日本在住の日本語がわからない外国の人たちが、そういう見識ある意見ある方たちと、英語で語るチャンスがないから、お互いに気付いていないだけだとも思っています。だからこそ、ここにも「英語が出来る子が音楽をやるべきなんや。」というmasta.Gの言葉が生きてきたわけです。まったく素人な私でも、練習とLIVEをやっていく中で何十年かの内に、いつか何らか世の役にも立つことがあるかもしれないと思えることは起爆剤でした。


それともう一つ、当時よく見に来てくれていたアメリカ人女性達。大学の講師の人たちなどでしたが、LIVE中に私が話すアメリカでの体験を聞いて、「彼女が羨ましい。」といった人が居ります。それを聞いて私はとてもビックリしました。一体全体、こんな黄色い女の子の何が羨ましいのかと、LIVEの後で直接本人のテーブルに行って聞くと、

「私もアメリカで生まれて育って、一生懸命生きてきたつもりだけれど、貴女の方がもっとアメリカでいろんな体験をして、すれすれのドラマを通り抜けて、学びながら人生を楽しんでる。英語もLA訛りがカッコイイ。あんな英語を喋りたいけど、田舎者の私にはできないし。」
そんな感想でした。そう映るのか…そんなもんなんかな。と思いながらも、私は一生懸命、自分の人生は自分で面白くしていくものだと思ってるから、そうするように生きれば、きっと貴女の人生もアドベンチャー満載の、生きがいある日々になります。と応えていました。私の年齢を教えてあげると、飛び上がってビックリしてましたね。それでグッと元気が出たみたいでした。そう、ほんとうに終わるまでは終わりじゃないねん。それは、私がアメリカ黒人の歌から学んだ精神でした。


外国の人に見てもらうことも、日本人に見てもらうことも、どちらも大事です。そこに何らかの違いがあるなら、取っ払いたいもんですネ。やる方も見る方も、どちらもが、自分自身を解放できたら素晴らしいと思います。そのためにも、やる側が解放されることが先でしょうね。そうでないと始まらない。どんな状況下でも、ちゃんと花開くパフォーマンスができるように、やれることは練習です。ちゃんとした練習です。


練習は大事。この頃から、やっとそれがわかってきていました。初めは何を練習するのかさえ解っていなかったと思います。そんなのは、やっていて何年、十何年、そのうちに身体に覚えていくものだから、積み重ねしかないはず。そこに根気が要ります。バンドならなおさらです。一人でも落ち込みやすいのに、それを何人分。。。一人の気持ちは他にも影響が出ます。それは家族の中に調子の悪い人が居るのと似ているけど、バンドは他人の集まりです。もっとダイレクトに気分に直結しています。誰かが嫌いとか、練習が嫌なら抜けるというチョイスもあります。でもそれはまた周りに何らかの変動を与えます。そうして人は付き合い離れていくものでしょうが。


私たちのバンドは、そうとうに厳しい練習がありました。殆ど毎日のようにスタジオに入って、掃除機や拭き掃除から始めて、何時間も白熱した練習。たまには怒号もあり、カウントを言う叫び声もあり、笑い声も勿論あり。練習につぐ練習の日々。それでもそんなにすぐには上手にはなれません。音楽をするということは、特に誤魔化しを決して許さないmasta.Gの元で音楽をするということは簡単なことではないのでした。それに我慢できずにそっと離れて辞めていく人々が居りました。やめてもらった人も居りました。私たち側からのチェック・ポイントとしては、やろうとしていることを理解できる音楽レベルかどうか、バンド自体のスタイルに向いていそうかどうか、何よりも本気かどうか、それが大きなボーダーでした。痩せるほどの練習が続いていました。そしてLIVE。一晩に二箇所やったときもありました。先にBAGUSでやってから、夜中にミナミの外国人BARで、とか。外国人clubのオーナーは頬っぺたにキス揺れるハート 、で迎えてくれる。まずはビタミン・カクテルを振舞ってくれて、好きな曲がかかれば前に出てきて自分から踊ってくれる。とにかく必死でやってました、あいかわらず巧くならないベースも弾きながら。面白かった。面白いっていうのは、何年も経ってから分かることもあるようですね。


「な。アメリカの音楽学校入りぃな。

 今行っといた方がイイと思うで。どう?行ってみる?」


ある日、masta.Gがそう言ってきます。


えぇっ!!!!わ、わたしが??音楽の学校? アメリカの!!!


〜つづく〜



bagus.jpg

インタビュー当日の撮影。
BAGUSにて。













posted by chi-B at 23:50| 大阪 ☔| Comment(2) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月31日

第十話 風に向かって進め


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

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QueenB & The B-Funk All Starsというバンドは流動的で、ドラムスのmasta.G、そしてボーカルのQueenB(chi-B)をのぞくメンバーはたえず入れ替わっていました。ずっとずっと、オーディションが続いていたといってもいいくらい、あらゆるジャンルからのプレイヤーを呼んで実践のLIVEをやりながら、試行錯誤をつづけていたバンドです。そしてもう一つ特色がありました。それは音楽とは少し離れているかもしれませんが、アメリカのライブ・ハウスのシーンを見てきたmasta.Gが日本で試してみたかったこと。お店自体の営業方法の違いです。

日本でライブ・ハウスというと、ステージがあり、オールスタンディングにせよ客席があるにせよ、お客さんはみんな、カウンターに飲み物を買いに行くセルフ・サービスがほとんどです。入場したときにドリンク代が一斉に集められ、チケットが手渡されてそれを消費する。。。たいていそれだけのことです。まるで食券を買う食堂みたいですね。アメリカのライブ・ハウスはどうかというと。。。エンタテインメントが確立している彼の地では、どれだけ混雑してても、そこには世話をしてくれるウエイトレスがちゃんと居ます。(大きいホールはさすがに無理ですが)元気で明るくてフレンドリーな女性が、話しかけてきておかわりの注文を取って、大きなお盆を片手で頭上までかかげて、踊るお客さんの間をにこやかにぬって歩く。愛想がよければチップもはずんでもらえるし、個人対個人の人間同士、一期一会のつきあいがあるものです。(これはスーパーマーケットのレジ係りでも同じこと。チップこそ無いけれど。)

masta.Gはそれを日本に、私たちのLIVEに、取り入れようと決めます。

The BusyBeez(はたらき蜂)と私が名づけた女の子たちは、ウエイトレスをやる役目が第一でした。曲によってはコーラスをしにステージに上がり、それが終わるとまた会場中に散らばって、注文を聞き、ドリンクを運び、あちこちで身体を揺らして踊る大事な役目を担っていました。いざやってみると、masta.Gの思惑通り、お店の売り上げはダントツに上がって、オーナーさんたちを仰天させたものでした。あれをどうして店側はやらないのか…と思います。本当の意味のウエイトレス及びホステスです。たえず店中に気を配って、お客さんのニーズに打てば響くスピードで応えられる”はたらき蜂”。これを教育するのは難しいもので、なかなかそう私やmasta.Gの思うようにはなりませんでしたが、それでも珍しくて華やかなのでお客さんにも大人気でした。この形でいろんなLIVEに出演させてもらいました。


さて、そうこうして音楽している間にも、例の父の勤めていた会社の負債と倒産のあおりはずっと追って来ていました。ほとんど寝たきりに近い父はもうアテにはならないと判断した母が、知り合いに来てもらって自営で不動産業を続けていこうとしていました。宣伝と売り出し中の物件のチラシをつくり、それを各家にポスティングするのです。母はそうとう頑張って、一日2千枚ほど一人で配り歩いていました。それでもほとんど依頼はなく、世は不景気に突入したばかり。私も昼間はその不動産のチラシを配り歩いていました。毎日のように銀行から、ついでは銀行の権利を受け継ぐ保障会社から人がやってきて、家と土地を売るようにとのご勧告。母は闘い続けていました。銀行を相手取っての裁判も数年続いていました。でも、結果的にはまけた形となりました。ついにその日が来て、私たちは住む家を出ることになります。

そこは、私が大切に思っていた家でした。ちいさいころ、大阪市内におりました。道より低いような土地にある長屋に住んでいて、同級生達から「馬小屋〜!」と大声だしながら屋根に石を投げられたことがあって、そのときに母がまともな家に引っ越そうと決心したそうです。まともとは、何を持ってしてまともなのか、母の真意はわかりませんが、今の南大阪の土地にちいさな売り家を見つけ、引っ越してきました。中学生時代からずっと住みながら、もっと綺麗に改築して欲しいと父にお願いすること数十年。「家なんて、寝られたらええんや!」といい続けていた父もついに重たい腰を上げてくれて、私がカリフォルニアに留学する前にやっとこさ改築が始まりました。

屋根の瓦、外壁、庭の木々、壁紙、タイル、照明、ドア、ドアノブ、家具…。父が「お前の好きなようにしろ。選ぶものはぜんぶ任せた。」といってくれたので、金額の上限はあったにしろ、その限界まで使って、ほとんど好みの通りに出来上がった大好きな家でした。その家とのお別れでした。家が出来てすぐにアメリカにいってしまったので、まともに住んだのは留学前の三ヶ月と、帰ってきてからの2年足らずだけでした。父は、出て行くこと無い!居座ったらいいんや。と言いましたが、母はもう我慢ならなかったのでしょう。

寒いクリスマスの時期の引越しでした。大きな家から、小さな家への引越しほど困ることはありません。荷物が入らないんですから。とうぜん、たくさんのものを捨てることになります。うちもトラック3台分くらいの荷物をお金を取られて捨てました。なにがなにやら混乱して覚えていないくらい壮絶な一日でした。朝8時くらいからはじまって、夜中の3時までまだ引越しセンターのバイトの子たちが十数人、まだ帰れないと家に電話していた姿を思い出します。この引越しの数日後、母は身体を壊してお腹の手術を二回受けています。ぐんと老けたのはこの頃からです。父もまた入院し、私はアメリカから帰ったときのように再び一人で三ヶ月あまりを暮らすことになりました。はじめての知らない家での不安な夜は眠れなくて、毎日、朝日が出てくるまで起きてましたね。昼になると、真冬の北風に向かって病院へ通う。私だってフラフラでした。寒いし、家はなくなるし、親は弱るし。歩いてても腰が曲がってくるような、そんな重さに耐えていた頃も、masta.Gさんにはよく励ましていただきました。がんばれよって。幸いなことに、私の心は元気で、戦う気持ちが満々にあったのでした。そして、自然にこんな曲ができました。

Go Against The Wind
 作詞・作曲:chi-B ファイナルミキシング:masta.G
 バックトラック作曲:Kaz h.



















 All Rights Reserved. 転載・配布はしないで下さい。
 著作権は上記三人にあります。


もしも夢が遠すぎると思ったら、あなたはどうする?

ゆっくりと忘れて、それでいいと思えるの?


ある日道を歩いてて、気が狂いそうな思いに駆られた。

涙がこぼれ落ちて、言葉はぜんぶ、ため息になった。


私は風に向かって進もう。そこに答えがきっとあるから。

風に背を向けずに行こう。いつの日か心の平和を手に入れたい。


家はなくなってしまったけれど、私には家庭がちゃんとある。

私は風に向かって進んでいける。 



〜つづく〜




posted by chi-B at 03:02| 大阪 ☀| Comment(3) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月02日

第九話 他人と交わりながら


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

「生演奏とデジタルな音を同時に出したいねん。
 どっちにも良い所があって、どっちも好きなんや。」

masta.G


昔のテープに入っていたトラックを使って曲を作り始めた頃、
L.A.からは続々と新しいバックトラックが送られてきました。
それをmasta.Gはいつも私に持って帰らせてくれて、
とにかく次々と作ってみるように、と云ってくれていました。

歌のネタには事欠きません。
毎日のように自分に起きる人間模様から、言いたいことが溢れ、
それを英語の歌詞にして歌い、語り。
テクニックを磨く時間はまったく持たなかったけれど、
それは後回しにして、とにかく書き続けた時期でした。
唯一のポリシーは「実話に基づいていること」。

アメリカから帰ったばかりだった私の目に映る日本人の姿。
私の目には、収入と年齢ばかり気にしているように見えました。
テレビでも雑誌でも、イチイチ名前の後ろに(…才)と
年齢が書いてあることやらが、無意味で馬鹿らしく思えたものです。
(今思えば、アメリカ人も同じように気にしてるのですが、
 敢えて、それは会話には持ち出さなかったように思います。)
もっと解放されていいはずだと思えて仕方なかった時期でした。
そんなもので、人の幸せや人格が測れるはずはないのだから。

そんな気持ちのアレコレを入れ混ぜて作った歌があります。
題名I'VE GOT YOUR BACKは「私がついてるよ!」という意味で、
ちょうどその頃、その言い回しが新しい黒人のスラングとして
アメリカ社会でちょっと流行っていたのを思い出します。
新しい、もっと前向きな考え方を広めたかったのでした。
英語だったこともあって、広まることはなかったのですが。。。

この頃だったか、テレビに歌う私がちょっとだけ流れました。
大阪城公園での録画でした。To All The Dumdumzを歌って。
ちょうどストリート音楽が流行しだした頃のハシリで。
残念ながら自分では見ていないのですが、
メチャクチャ元気にやってただろうなと思います。

I'VE GOT YOUR BACK



英語作詞・作曲:QueenB(=現chi-B)
バックトラック作曲:Kaz h.
ファイナル・ミキシング:masta.G
著作権は上記三人にあります。無断転載・配布は禁止です。

大意:
貴方の話はお金と年齢のことばかり。そんな数字ばっかりを気にしてないで。
迷ってないで、一緒に行こうよ。寂しいときには私がついてるから。   
   
私の名前はQueenB。私はミツバチ。蜂は強くて、働きモノ。
ね、私はQueenB。私の愛は甘くて深くて本物。
落ち込んだときには私の蜂の巣においで!悪を追い払って生き残ろうよ。


BAGUSで頑張って働いていた子たちや、応援してくれていた子、
そんなありがたい人たちへの思いもこの曲に込めました。
でも、こんな楽しい曲を作っている時期にも、もちろん、
気分の悪くなるような出来事は起こっていました。
それはもう記事にはしませんが、曲だけはアップしておきます。


〜〜〜◆〜〜〜◆〜〜〜◆〜〜〜◆〜〜〜


それまで仲間だと思っていた人が急に手のひらを返す。
理解できない理屈だけを残して、いつしか裏切って去っていく。
真剣に音楽をやり始めてから、それを何度も経験しました。
その始まりが前回アップした「Y?」(なぜ?)の中の驚き、
そして、次の出来事で出来上がったのが、この曲でした。
最初のバースは数年後の作品「着信拒否」でも使いました。
それは意味があってわざとそうしてあるのですが。

Where'z Your Thankyou?


















英語作詞・作曲:QueenB(=現chi-B)
バックトラック作曲:Kaz h.
ファイナル・ミキシング:masta.G
All rights reserved.
著作権は上記三人にあります。無断転載・配布は禁止です。


大意:
あなたが自分の行きたいところへ行くならば、誰も無理に引きとめようとは思わない。
私の欲しいのはほんの少しのデリカシー、あなたが去っていく前の。
私の運命が愛と嫌悪の狭間にあることに、私はもう気付いている。

あなたの「ありがとう」は何処?それを訊ねたいの。
去っていく前に、「ありがとう」の言葉はどこにあるの?

人は皆、幸せになりたいよね。
でも、あなたは幸せの意味がわかってますか?
幸せは、他人の傷や痛みの上に成り立つものですか?
私はそうは思わない。ぜったいにそうは思わない。


こんな曲の数々が出来上がった頃、新しいバンドが生まれます。
バンドの名前はQueenB & The B-Funk All Stars。
クィーンビー・アンド・ザ・ビーファンクオールスターズでした。

masta.Gさんと私が本当にやりたいこと、今も昔もそれはLIVEバンドです。目標は、トラックマスター達によって作られたバックトラックを、生で再現してさらにアレンジも加えてステージで演奏すること。それは、口で言うのは簡単ですが、並大抵のことでは出来ないことです。masta.Gも、トラックを作っているギタリストさんも、決してテキトウな演奏で納得できる人たちではないのですから。masta.Gのバンド・マスターとしての日々が始まりました。masta.Gに声をかけられて、意気揚々とメンバー達(19才〜30才代さまざまの)が集まってきました。


〜つづく〜




posted by chi-B at 03:00| 大阪 ☔| Comment(8) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月14日

第八話 夢かうつつか


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

「音楽はライブが一番大事なんやで。

 たくさんの人に生で聴いてもらって始めて音楽が生きてくるんや。」

masta.G


まさに音楽のド素人だった私でも、完成されたトラックのお陰でなんとか歌やラップ(のようなもの)がポツポツと出て来るようになった頃、masta.Gが云います。

「LIVEやろうや!もうやれるやろ?」

「エッ!うぅぅぅぅ。でも4曲くらいしかないですよ。」(私)

「4曲もあったら充分やんか。
 何曲やるつもりやねんな?こわい奴っちゃな〜。笑」

始めて自作の曲を人前で…。数十年通いなれたBAGUSではありましたが、その日だけはまったく違って見えたものです。他のバンドのLIVEがある日に、一緒にブッキングしてもらったように記憶していますが。そこそこのお客さん(対バンのお客さん)の入りでした。前日にはいつもに増して念入りに拭き掃除をして、テーブルもお洒落な感じにならべて。なかでも忘れられない想い出の一つは、見に来てくれた皆さんに花を一輪ずつ配りながら歌ったことです。初めてのLIVE、季節はちょうど今くらいでした。気の利いたMC(おしゃべりしながら進行)なんて洒落たことは出来ない自分であることは百も承知だったし、何よりも記念の初LIVEだから、母にお願いしました。「聴いてくれはるお客さんに花をプレゼントしたいねんけど。。。」


母は、LIVEの数時間前にBAGUSへ近所の花屋から花束を届けてくれました。私のリクエストした真っ赤なスイトピーをちょっと多めの40本。ひとつひとつ透明のラッピングがしてあってリボンまでつけて。それは大きな花束になって配達されてきました。母に見られると恥ずかしいという気持ちから、LIVEには来ないで、と云ってしまったことが今ちょっと後悔の種にはなっていますが、B-Funk Rideを歌いながら最後に、一人一輪ずつ配って歩いたことは、とても意味がありました。結局何も話さず、ただただ歌って、ただただ頭を下げながらお客さんの間を縫って歩く間中、スイトピーのいい匂いが立ち込めて、それは匂いの記憶になって私の脳裏に刻まれています。しあわせな、ビギナーの第一歩を踏み出させてもらった夜でした。MDでカラオケを流しながら、私がボーカルでmasta.Gがドラムを叩く…今やっているのと全く同じスタイルで当時もやっていました。


伝説の最強R&Bバンド、スターキングデリシャスがこの世に残した、たった一枚の最初で最後のアルバム「スターキングデリシャス」がCDで再発売された記念のLIVEがBAGUSであったときも、前座&ちょこっと英語のMC(この頃には英語でなら話すようになってました。変な奴ですよね。今は自覚しています。)をやらせてもらいました。光栄なことこの上ない幸せモノでした。その夜は、スタキンの今は亡きドラマー岩本一郎さんの代理として、masta.Gがドラムスをやっていました。その日のLIVEはスペースシャワーTVが録画に来てて、またまたBAGUSの周りの店や住人達が、難癖つけて怒り出して揉めに揉めたものの、さすがはプロのスタッフです。あちこちに飛び回ってさっさと話をつけ、録画は無事に終了しました。ケーブルの音楽ニュースでは放送されましたが、このLIVE映像自体はまだ放送はされておらず、今も資料室か何処かでそっと出番を待っていることと思います。見たいな〜とずっと思っています。(私のところは映ってないですよ。メインボーカルの大上留利子さんにマイクを渡したその後から、のはずです。)


それからしばらくは、masta.Gと二人のLIVEが続きます。一人でもやりました。自宅にあったソファとテーブルをBAGUSに運び込んで、花を飾って、そこにデンと座り込んで。好きにやらせてくれたmasta.Gに大感謝です。歌う私のバックで、グランドピアノを小粋に弾いて下さったことも一度だけあります。ハワイアンの曲に、私が英語で作詞したロマンティックな歌でした。あの日、BAGUSであのLIVEを見た人は、ちょっとお得でしたよ。多分、masta.Gのピアノ演奏が見れることなんて、もう無いですね。

とにかく、今ではやれないほど、なにもかも思い通りにさせてくれはった。BAGUSは小さな換気扇しかないので、たくさんの人が一挙にタバコを吸うと煙って苦しいという私のために、LIVEの間だけは禁煙にしてもらったり、わがままきいてもらって、やりたい放題でした。まるで子供です。しかもずーーーっと延々、英語しか喋らないという異様なLIVEです。ナニをやろうとしてたんやろう???多分、ずっと英語の音楽ばかり聴いてて、外国のLIVEを見ていたから、それこそを自分もやりたかったのだと思います。


無邪気な始まり。。。それはmasta.Gがわざとそうしてくれてたと、ハッキリわかったのはつい最近のことです。

「最初ぐらいは思いっきりイイ気にさせてやりたい、と思ったんや。

 その後でムチャクチャ辛い思いすること分かってたからな。」


これは、ほんの数ヶ月前のmasta.Gの言葉です。でも、そうしてくれはったことは深い人間愛だと思っています。盲導犬の子供たちが仔犬の頃に一年間、優しい家族に育てられるような、そんな大事な時間だったのでしょう。そうですね、ちょうど一年くらいだったかな。こうして考えてみると、やっぱり親みたいに長いスパンで見つめてくれる人に育ててもらっていることが、私の一番の幸せだと思います。「俺が育てなおしたる!」と云った(第一話参照して下さい)masta.Gの言葉は嘘偽り無い、本気の言葉だったというわけです。


この後、自分たちのLIVEをやる傍ら、他のバンドで下手なベースを弾いたりすることもあったり、アマチュアのミュージシャンに参加してもらってバンドとしてLIVEをやったり、ミュージシャン以外の人たちが仕事で絡んでくるようになった頃から、話はちょっと違ってきます。実年齢よりも未熟な私の未熟な頭でしたが、ついに世間や社会と接点を持たなければならなくなるのです。それも生生しい、嫉妬や嘘や怠慢や葛藤や裏切りや孤独感、しかも自分のだけでなく、他人のそれもMIXされた、ワケのわからなくなりそうな渦。。。それは、私が小学生時代からずっと意識的に避けてきた、他人との関わりの副産物。逃げたつもりが、その渦中へと飛び込まなければならない。。。

「フリダシ ニ モドレ」

という音楽の神様の指示のような運命の始まりでした。そこを通らなければ、音楽の本質には辿り着けないんだな、ということだけが、なんとなく未熟な私にもわかるのでした。その頃は本当に”ただ、なんとなく”の程度でしたが。


一つ一つのトラブルをここで暴いても、それには全く意味がないので書きません。ただ、その体験を通して出来てきたリアルな曲の数々は、これからこのカテゴリーでアップしていきます。今日は一曲だけ。「Y?」を。(Why? どうして?の意味です。)どうぞ聴いてみて下さい。


Y?


















作詞・作曲:chi-B(当時QueenB)
バックトラック:Kaz h. Final-Mixing:masta.G

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著作権を侵害する行為はしないで下さい。


〜つづく〜












posted by chi-B at 02:27| 大阪 ☀| Comment(0) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月21日

第七話 自分VS.自分


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。

「君は敵か味方かどっちや。どっちでもないという答えは俺には通用せん。」masta.G


1996年頃からBAGUSが閉店するまでの数年間、私はアマチュアのシンガーたちに英語の歌の意味をずっと教え続けておりました。BAGUSに歌いに来る人たちの中で、そんな授業をしている私を煙たく感じている人たちも少し居たようでした。「発音なんかどうでもエエねん。歌の気持ちさえ音で出せてたらエエンや。」と、教えている最中の私に聞こえよがしにいう人も居りました。それはある意味、非常に正しいです。これは今となって分かる事ですが、”気持ちを音色で出す”ことがプロの音楽家の最も大事なテクニックの一つです。でもその頃の私には、そう理解するよりも、「ん?ミュージシャンって何か嫌味で意地悪なところもあるんやな。それじゃ歌ってる内容と実際の行動が矛盾してるんじゃない??平和とか愛とか歌ってるくせに、その態度はなんやねん?」と疑問plus腹立たしさが沸き起こってきました。他にも、masta.Gには愛想が良くても、見習いアルバイト(私もアルバイトみたいなもんでしたので)には態度を変える人も数人見たのでした。

その頃、今にも増して向こう意気の強すぎた私はBAGUSに貼り紙をしたことがあります。その原稿は遠い昔に失われ、正確に記憶しているわけでもないのですが、「あなたたちミュージシャンは嘘つきですか?」というような書き出しだったと思います。そうとう挑戦的な文章でした。「ファッションや髪型だけ黒人さんの真似しても、肝心のスピリットもなく、Brotherhoodなんてカケラもない。歌ってることと行動がチグハグで、そんなのは嘘つきやと思います。この文章に対して言いたいことがある人は、直接QueenBに話しに来て下さい。」といったような内容で、大きな模造紙三枚にもなっていました。もちろん、誰一人として私に話ししに来てくれるような奇特な人は居ませんでしたが。今思えばmasta.Gがそれを書いて貼るのを許可してくれたことは驚きです。ずっと”おとなしくて、店に来ても本ばかり読んで話しもしない子”と思われていた私が、この胸の中に潜めていた本音をついに出し始めたことを、大事な表現の糸口だと思っていてくれてたのか、それはわかりませんが。。。人の心の機微など解ろうとも思わず、恐ろしく偉そうなことを書いたことを、反省と共にここに記録しておきます。そんな失礼極まりない貼り紙を許可して、何週間も貼り出して置いてくれたけれど、masta.Gは私にはこう言っていました。

「君の言ってることは正しいわ。けどな、

 シンガーやったら、言いたい事は歌で言わなアカンな。」


BAGUSでは、他にも見習いの子たちが居る時期もありました。お店というのは、客として行っているときにはまったく気づかないような、さまざまな用事や問題事があるもので、特にmasta.Gのように、非常に神経細やかな綺麗好きなビシッと芯の通った元ミュージシャンがマスターの場合、普通以上にアルバイト達は多くのことを教えられます。それは、とても大事な教育であって、それが出来れば何処へ働きに行こうと役に立つ知恵と技術なのですが、たくさんの子達が厳しさに耐え切れずに、逃げていくのを見てきました。初めは「音楽やってる店で、音楽やりながら働きたい」と思って、自分の足で階段を上がって、BAGUSという別世界へ飛び込んできたものの、地味な集客活動やら掃除に日報、店でのLIVEの裏方に加えて店以外の施設でmasta.Gが企画・開催するコンサートイベントの手伝いもあり、一筋縄ではいかない仕事だと気づくと辛くなるのでした。簡単に時給がもらえることに慣れてしまっている19・20歳〜の若さです。すぐに辞めてしまう人たちが多かったものの、怒られ泣きながら何年間も必死で頑張っていた男の子たちが居ました。

ところが、BAGUSの外にはBAGUSの存在を疎ましく思っている悪い大人たちの思惑が多数うごめいていたのでした。市で大きなJAZZやR&Bのコンサートをすれば、「売名行為をやっとる」と噂を流し、「音楽がやかましい!」とLIVEの度に警察に匿名の電話をかける人たちや、店に怒鳴り込んだり、ヤクザまがいの客を送り込んで暴れさせたり、ありとあらゆる嫌がらせや営業妨害が後を絶ちませんでした。

そういう理解のない世間と、ある時は朝まででも話し合い、ある時はBAGUSニュースという新聞を作って駅で配り、やっていること(音楽・アートの振興)への市民の理解を求め、ある時は誰よりも怒り狂い、ある時は客を守るために土下座をし、ある時は笑顔も見せ、そうして闘いながら何十年もやってきていた”決して理不尽な権力には屈しない”masta.Gは、地元の権力者たちの間では目の上のタンコブ的存在でもありましたので、面と向かって言いたいことを言わないズルイ人間たちの嫌がらせは立場の弱いアルバイトに向けられることもあったのです。そんな力と力の板ばさみになる辛さもあったと思います。それを可哀想とは思いつつ、男の子なら君たちも闘える人になってくれ、と私は心で願っていました。なぜなら、私も同じように、同じことを、masta.Gから叩き込まれ始めていたからでした。

社会と関わることを何気なく避けて、付かず離れず、うまくかわしているつもりだった自分を反省して、もう逃げることを止めると決めたけれど、決めたからといって、そう簡単にそれまでの怠惰な気持ちが魔法のようにスッキリ消えるわけではなく、どうしても気持ちがブレて、そこを責められると精神的に非常につらい時間が流れる。真っ直ぐ見つめてくるmasta.Gに対しては、何事も誤魔化せないのですから。そして、逃げたくなる。。。。私にはそのアルバイトの子達の気持ちは痛いほどわかる。それでも、逃げるなと言いたい。だってどこへ行こうと”自分自身の弱さ”からは決して逃げることなど出来ないのですから。一緒に強くなる努力をして欲しかった私でした。残念なことに、私の思いはすべて一方通行に終わってしまったのですが。

その頃に出来た2曲をアップして、今回は終わりに致します。
長文を読んでくださってありがとうございました。曲をどうぞ聴いて帰ってくださいね。この2曲は、自分の迷いと闘う自分と、今現在、そんなしんどい気持ちをくぐり抜けているすべての人々へ…。

〜つづく〜



PERFECT FREEDOM


lyrics&melody: chi-B(=QueenB) backtrack: Kaz h.
final-mixing: masta.G

あなたの気持ちわかるよ。どうぞ心を開いて聞いててね。
完璧な自由。それを皆が昼も夜も探し続けてる。
完璧な自由。それは自分の心の中に育てていくもの。
完璧な自由。自分の中の怖れを乗り越えたときに輝き始める。
完璧な自由。それは生まれてずっと貴方の中にあったんだよ。



OUT オリジナル・バージョン


















lyrics&melody: chi-B(=QueenB) backtrack: Kaz h.
final-mixing: masta.G

眠くてたまらない頭の中で、自分の迷いがささやきかけてくる。
痛むこの頭の中を、混乱した思いがさまよい歩いてる。
心の迷いが見ようとするこの世界をぼやけさせてしまう。
魂の解放…それが私たちには必要なんだろう。
迷いよ、この心から立ち去れ。O-U-T、アウト!


数年後に録音されたOUT!のLIVEバージョンは↓のLINK先でどうぞ。
http://chib.seesaa.net/article/23929346.html

楽曲の無断転載・配布をしないで下さい。
All Rights Reserved. chi-B&masta.G, Kaz h.








posted by chi-B at 03:26| 大阪 ☀| Comment(2) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月10日

第六話 手探りの日々


My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。


今まで君は揉め事を避けて生きて来たはずや。

我慢したり、逃げたり、私は関係ないと自分に思い込ませて。

これからは心に浮かぶことを全部ごまかさずに外へ出せ。

それで人に嫌われても仕方ない。それが自分の本当の姿や。

それを思い知ってからが、本当の自分の人生の始まりや。

間違ってることは素直に認めて、謝って、直せばいいんや。

自分を出して、人から思いっきり嫌われてみろ。

人と揉めてみろや。世間ともっと関われ。

闘うべきときには思いっきり闘え。

それが君の音楽になるんや。
masta.G


masta.Gと二人、シャッターを閉めた店の中で、遊びのような音楽の練習が半年ほど続いていましたが、CDをかけながらドラムを叩き、私が歌う、というやり方では面白くなくなってきたmasta.Gは、店に演奏に来るアマチュアのJAZZプレイヤー達に声をかけてくれて、何人か入れ替わり、立ち代わり、楽器を持って集まってくれるようになりました。それとともに、当時BAGUSに出入りしていた外国人のお客さんが、おもしろい!といって練習を覗きに来るようにもなっていました。日本へ出稼ぎに来ていたブラジル人の男性たちや、アメリカ人たち、などなど。家がとんでもない借金にあえいで取立ての電話がじゃんじゃんかかり、親二人は病気なんていう、そんな悩みも忘れられる時間でした。ただただ楽しかった。


ある日、masta.Gさんが言いました。

「自分の曲をつくらなアカンな。他人の歌ばっかりやっててもダメや。」

ここで私はまた悩みます。。。

楽譜も書けないし、楽器も弾けない自分がどうやって歌なんか作れるものだろうか…。まったく何から手をつけていいのやら、さっぱりわかりませんでした。今のように簡単にトラックを作れるという時代でもなかったし。ちょっと考えてみても、音楽らしきことは何ひとつ頭に浮かんでこなかったし。それで、私は思わずこう云いました。今思えばあまりにも情けない言葉ですが、正直に書いておきましょう。。。

「ずっと他人の歌、歌っときます。そんな歌手も居るし。」

単純な私の頭の中には、港酒場で歌っているちょっと疲れた女性シンガーのイメージがあったのでした。大昔テレビで見た「ダウンタウン物語」。桃井かおりさん扮する、過去のあるシンガーのイメージです。(※ドラマで流れる曲を集めたアルバムは、荒木一郎さんの作った素敵に気だるいブルージーな曲と綺麗なゴスペルが収録されていて、子供時代の私の中で、その酔いどれて陰のある姿が、なんだか憧れでもあったのでした。ドラマの主題歌やレコードのなかの曲は荒木一郎さんだけでなく、桃井かおりさんも作詞されてたと思いますが)当時の私は、自分が好きで聞いている曲を、そのまま歌えたらイイな〜くらいの頭だったのでしょう。

「あほかー!ワケのわからんこと云うな!!!!」

当然、叱られました。そしてmasta.Gが教えてくれたことは、

「今はどうか知らんけど、俺らの頃の芸大ってな、自分のオリジナルの研究を提出しない奴は卒業できへんねん。俺の好きやった教授なんかは、宿題で人の真似したり写して提出するやつの頭を思いっきり硬い出席簿でしばいてた。力込めて思いっきりやで。大学生のでかい生徒らの頭をバッシー!っとな。”出て行け〜!”って云われて、二度と授業には出られんかった。」

「アートの世界はな、人の真似したり盗ったら最後や。

 最低な行為なんや。わかるやろ?

 練習でコピーするのは別の話やで。それは大事や。
 
 でも、俺らはオリジナルで勝負するんや。

 最初から二流、三流狙うなや。おもろないやんか。

 オリジナルでないと意味がない。自分で作れるはずや。

 いっぱい腹立ってることやら云いたい事あるの知ってるで。

 それみんな出してみいや。」


そういって、masta.Gが渡してくれたのはカセット・テープでした。そこには、使われずに何年も経っていた素晴らしいトラックの数々がそっと眠っていたのでした。アメリカに居るmasta.Gの友達が、ギターを弾きながら作っては、masta.G宛てに日本に送ってきていたカセットテープです。初心者にはもったいないと思いましたが、masta.Gはその大事なテープ数本をかしてくれて、私はそれをすべて聞いていくことになりました。

カセットに入っていた作品は、どれもこれも当時の日本ではまったく聞くことの出来ない新しいアメリカならではの大胆な音を満載したものでした。好きなのがいっぱいありました。その中でもいくつか、忘れられない曲があったのです。ある日、それを聞いているうちに、急激に二つの詩が次々と生まれました。一つはB-Funk Ride。。。そうです、あのドラッグ中毒患者たちのリハビリ・センターで働いていたときの思いを詩にしたもの。そして、もう一曲は、どうしても我慢ならない、日米両国に実在する女の知り合い達に向かって作った怒りの詩を載せたTo All The Dumdumzです。私の中の愛と憎、ふたつの感情がほとんど同時に外に出たものでした。

さて、詩は書いたものの、録音の仕方がわからない。

そこで、私は考えました。専門的な機材など何もないけれど、安物のテープレコーダーなら家に二台あるぞ!と。女の子の浅知恵といえばそれまでですが、私の考えたやり方とは。。。

まず一台のテープレコーダーでカセットを鳴らし、それに合わせて歌(といえるものかは別として)を歌い、もう一台についている外部用のマイクで録音。その出来上がったテープをかけながら、コーラスを録音する。というやり方です。廃品回収の車が来ては中断し、電話がなっては中断し、そんなやり方でもできるものはできるもので、なんとか自分の部屋でまず二曲を作りました。それから先、このテープ群とBAGUSで体験していく様々な人間関係で揉みに揉まれ、図らずともバラバラバラ〜っと数々のオリジナル曲が出来ていくことになりますが、それについては、さらに長くなりそうなのでまた次回とします。

〜つづく〜



B-Funk Ride



















lyrics&melody: QueenB(=chi-B) / backtrack: Kaz h.
Final-mixing: masta.G

さあ、車に乗って、ベルトを締めて。
これから私がドライブに連れて行ってあげるから。
自分の努力を誇りに思って欲しい。輝く明日は来るよ。
自由で、嘘をつかず、愛されて、それがB-FUNKの願い。


To All The Dumdumz



















lyrics&melody: QueenB(=chi-B) / backtrack: Kaz h.
Final-mixing: masta.G

私を巧く手玉に取っているつもりの特定の人たちに
この曲を捧げる。人を騙して傷つけるあなたたちに。
このB-Funk Girlを過小評価してしまったお馬鹿な人達に。
コネだけを探して、他人を利用するばかりの貴女たちに。

楽曲を無断で転載・配布しないで下さい。
all rights reserved. chi-B&masta.G, Kaz h.

  
posted by chi-B at 02:47| 大阪 ☀| Comment(0) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

第五話 ザ・ライブハウス

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。


音楽は考えてることが全部出るんや。

音一発、声一発で、そいつの中身がわかる。

ぜったいに何も隠されへん。

そのうちイヤというほど分かると思うけどな。
masta.G


 かくして私は買ってもらったベースを抱えて、masta.Gさんと共に関西国際空港に舞い戻りました。飛び立った日は関空もまだ無かったので、初めて見る空港で、みみ卯のきつねうどんを食べたのを覚えています。日本を発つ日はまだバブル真っ最中だった日本も、5年後に帰ってみると、どことなく寒い空気が吹き抜けて、何もかもがくすんで見えたのは帰りに立ち寄ったハワイとは段違いの冬真っ只中の12月だったから余計だったかもしれません。空港から家に電話をしても誰も出ません。なんでだろうと思いながら急いで帰ってみると家は人っ子一人居ない留守。親戚に電話をしてみると、母は入院していました。退院してきた父の介護で肩の腱が切れたのと、副鼻腔炎が悪化していたのとで、緊急に手術を受けていたのでした。父は別の病院に預けられていて、それから3〜4ヶ月、二つの病院を掛け持ちで通いながら、私は家で一人ぼっちで暮らすことになりました。


 一人で居ると寂しくて、そうなれば、もう行くところは一つしかありません。そう、masta.Gのやっていたライヴ・ハウスBAGUSです。ここで、笑われるのを承知で白状すると、私はそうとうな箱入り娘だったのです。高校を卒業すると同時にBAGUSには毎日ほど行っていたのですが、夜のLIVEを観ることは無かったのです。門限は7時くらいで、その時間が近づくと母がBAGUSに電話をしてきて、「娘にすぐに帰るように言って下さい。」と言うので、私はLIVEを見ることなく、レコードだけを堪能して帰っていました。母は海外のアーティストがやってくる大きなホールのコンサートだけは何故だか行かせてくれていました。好きなことを知っていたからでしょうか。


 その機会にBAGUSで色んな手伝いをしながら、音楽の裏方ではどんな仕事をしているのかを学びました。掃除、買い物、接客、バーテンダーの真似事、それから始まって、アーティストのブッキング、雑誌媒体の宣伝、ポスター作成、DM作り、それから、(これが非常に勉強になった)LIVE当日のPA操作に照明さん、ありとあらゆることが初めてで、それを次々上手にこなすmasta.Gさんの手際のよさに驚かされました。そうしながら、ちょうどBAGUS MUSIC SCHOOLを始めていたmasta.Gさんに誘われて、英語を教えることになりました。英会話のケオス(仮名)で教えていたのとはチョット違って、歌を歌いたい子達に英語の歌の発音や意味を教える仕事でした。歌自体は教えられなくても、歌詞の意味や発音なら何とかやれるやろう、という事で。この仕事では、ありとあらゆるジャンルの音楽をやりました。JAZZ的なもの(サラ・ボーンにルイ・アームストロングやらレイ・チャールズ、マンハッタン・トランスファーetc)soul/R&B(モニカ、TLC、ブランニューヘヴィーズ、アレサ・フランクリン、ローリン・ヒル、メイシー・グレイetc)ROCK(クイーン、グリーンデイ、もうわけわからない人々etc)もちろんビートルズも。。。私の好みは度外視して、ありとあらゆるジャンルが生徒たちから持ち込まれて、それを何十回も聞き、少しずつ噛み砕くように歌のバックグラウンドやら、スラングやら、発音を一緒に練習して、テープに合わせて、できればカラオケにあわせる程度には口ずさめるまで持っていくのです。楽しかったです。(私が!?)教えた曲の総数は二百曲を超えると思います。今もその時の手書きの歌詞は持っていて、自分の大事な記録です。


 そうしながら、週に二日はmasta.Gさんのドラム練習に私も参加して、歌を練習し始めていました。練習といっても、ほとんど遊びに近いものでした。私が好きなCDをお店に持って行って、それを大きな音でかけてもらい、masta.Gさんはドラムを叩き、私はマイクで歌う。。。それだけです。とにかくマイクから出てくる自分の声に慣れること、それだけが始めの課題でした。今もまだそれは続いてはいるのですが。それが楽しくて仕方なくて、練習の日が楽しみでした。Princeはもちろん、古いSlow JamやらFunkやらReggaeやら当時の最新のR&Bやら、持っているCDで好きなものをすべて網羅してやっていました。でもmasta.Gさんは何も教えてはくれないのでした。ただただ何時間も好きな曲を歌い続けるだけ、Gさんは叩き続けるだけ、です。


 そんなある日、あるアマチュア・バンドがLIVEにやって来ました。聞けばたまにLIVEをしている公務員さんばっかりのバンドです。R&Bが好きらしく、リハーサルを聞いていると私の知っている曲もたくさんありました。その中で私をビクッ!とさせたレパートリーがありました。大学生の頃から大好きで大好きでたまらず、勝手に秘蔵曲と思っていたDrothy MooreのMISTY BLUEです。生徒が持ってきたときも、「これだけは、私の曲だから(ゴメンなさい〜勝手なこと言って)教えられないわ。好きすぎて他人には教えたくないねん。」と言ってたほど大好きな曲です。それを察知してmasta.Gさんが言いました。「これ歌わせてもろたら?好きなんやろ?知ってるで。」と。でもとんでもないです。バンドの女性ボーカルもきっと好きで選んだに違いなく、ラスト近くに持ってきてるのは、印象的だからです。「ダメですよ。無理です。」と笑いながらも、それをバンドで歌えることが羨ましくてたまりませんでした。


 かくして、本番のLIVEが始まりました。私は相変わらずPAの前に陣取って、照明をいじりながら見つめていました。お客さんもまずまずの入りです。いよいよMISTY BLUE…曲名が紹介されて、前奏が流れ、一番の歌詞を歌いだすボーカルさん。。。その時です…masta.Gがそっと私に近づいてきました。


「ほい!コレ持って。」


「?」 …マイクです。シールドもミキサーに刺さってます。


「え。どうするんです?」と嫌な予感がしつつ聞く私に、


「すぐ前へ行って歌って来るんや。前行ったら音上げるからな。」


「!!!そ、そんな事でけへん!歌ってはるし!!!」


「かめへん!(=構わなくていい)歌え、ほら早く!」


「そんな失礼なことできませんて。怒られます。」


「怒ってもエエ!ここは俺の店じゃ。俺が決めたんや。

 命令や!行け!!!!!」


こうなったらもう逆らえません。逃げるのも自分が許しません。


 内心半泣きみたいになりながら、心臓バクバクしながら、マイク片手にライトの下へと転がり出て行った私にバンドもボーカルも演奏しつつ唖然としています。曲は一番の歌詞が終わる辺りだったと思います。こうなったら、言い訳もクソもありません。やれるだけやるしかないし、申し訳ないながらも、何よりも嬉しいんです。ボーカルの女の子に「ゴメンな!ちょっと歌わしてな!」とささやき、客席に振り向きザマもう一度、一番からイキナリ歌いだした私でした。歌う歌う。もう一生懸命やらせてもらいました。初めてのステージ。初めてのMISTY BLUE。今となってはどうやってステージを降りたのか、あまり記憶はないのですが、拍手をもらったのと、あの切ない失恋の曲をバンドで歌った喜びだけは覚えているのです。最後の最後の閉めはメイン・ボーカルさんにお渡ししました。少なくともヒトカケラの懺悔と感謝の気持ちでした。


ひえ〜っとばかりにバーカウンターに戻ったら、masta.Gさんが笑っていました。

「ヨカッタやん!やっぱり好きな奴がやるのがエエわ。」

お客さんの数人は「良かったです〜」と言ってくれたけれど、自分では良いも何も分からず、ウレシはずかしの気持ちでした。そして、バンドさんは決して口をきいてくれなかったのでした。当たり前やな、と思いましたが。これが決定打となったのかは定かではないものの、私は歌を歌うことを本気でやってみようかと思うようになります。勘違いかもしれないけど、masta.Gさんの言うようにやってみるのもいいかと思い出したのでした。


 父が倒れて、やっていた不動産の仕事が出来なくなるという家の事情があって、不安にさいなまれていた母は、私に望みを託していたのでした。「お願いやから、宅建の免許取ってくれへん?やらなくてもいいから。免許だけでも取っておいて欲しいねん。」宅地建物取引主任免許、これを持った人を一営業所に一人置かない不動産取引は違法です。(後日追記:厳密には…宅建業法では、不動産会社の事務所には従事者5人に1人以上、案内所には1人以上の専任の宅建主任を置くことを義務づけている。)身体を壊している母に理屈で逆らうことは躊躇われ、昼間に学校へ通って6ヶ月後、私は国家試験に合格して、免許を取得していました。でも…、この免許を使うような種類の世界には絶対に入らない。と、私の気持ちはもう決まっていました。そんなものとは真逆の世界に心は完全に向かっていたのでした。今度こそ間違いたくない、それを思いつつ。


〜つづく〜




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2007年02月13日

第四話 えらいこっちゃ

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。


「これ言うとみんなゴッツ怒るんやけどな、

 そんな人間になったのは、君の親の責任や。

 家出されるのやら反抗されるのが怖いから甘やかしたんや。

 それと学校教育な。

 俺が育てなおしたる。芯から根性叩きなおしたるわ。

 言うとくけど俺は怖いで。誰よりも真剣やからな。

 それとな、俺は”女の子の味方”やねんで。

 新しい、本当のエエ女が増えてほしいねん。」
masta.G



 父が倒れたとの電話には驚きましたが、母の様子が落ち着いていたので、しっかりと様子を聞きました。朝、ガチャンというガラス灰皿のぶつかる音がしたので居間を覗いたら、父が机に突っ伏していたといいます。脳梗塞です。病院に搬送されて、脳にたまった血液の腫れがひくまでは危険な状態が続いたらしいですが、意識が戻って左半身は麻痺が残る身体になったものの、命に別状はなく、落ち着くまで入院していることになったので、私には連絡しないでおこうかと思っていたと言っていました。

「そっちも生活あるやろうから、今すぐ飛んで帰らなくていいよ。
 でも先の相談もあるし、とにかくメドが付いたら一回帰って。」

出来ることならすぐに帰ってやりたかったのですが、リハビリテーション・センターの仕事もあるし、(人手も少なく、簡単に誰でも代われる仕事でもなかったのです。)おそらく今回は、L.A.に戻る予定の立たない帰国準備です。となると、家具を売り払ったり車を売ったり、いろいろと用事があるもので、飛んで帰ってまた来て、また帰って、という贅沢はできなかったので、お店BAGUSの様子を見に帰ってまたHollywoodに戻ってくると言うmasta.Gさんに、とりあえず母に会って様子を見てきて欲しいとお願いしました。仕事先にはさっそく、あと数週間のうちに他の人を見つけてくださいとお願いしました。masta.Gさんは日本で私の家に行き、お見舞金を出してくださり、心細く暮らしている母の話もじっくり聞いてくださってまた戻ってきました。


 父は、かなり混乱していたもののそれなりに元気で、数日して集中治療室を出て、一般病棟でリハビリを始めました。ただ病室にウィスキーを何本も隠し持って飲んだり、動かなくなった身体に怒って捨て鉢になったり、かなりの暴れん坊でありました。倒れてわかったことはバブル崩壊のお定まりのストーリー。莫大な借金です。勤めていた会社(その頃にはすでに倒産してなくなっていて、父は家で個人の小さな会社を始めていましたが。)の負債を一緒に背負い込んで、数億円という額の連帯保証人になっていたことと、そこから来るうつ的気持ちからか、カードローンで数千万円という自分の借金と。本人は「何に使ったか覚えてない。」と言うのみですが、私に送金してくれていた分も、その中の一部であるのは確かでした。父は絶対に私を責めないのです。子供のときからずっとそうでした。始めの一年分くらいは自分の貯金で学費と生活費を出し、足りない残りは父に頼んで貸してもらっていました。学校を出て鍼灸の免許が取れたら、頑張って働いて、きっと返すからと約束したお金です。


 日本に帰る日がハッキリと決まったのは、それから数ヶ月後でした。家具がなくなってガランとしたHollywoodのアパート。最後の日にmasta.Gに撮ってもらった写真の私は、笑っていてもどれも寂しげに見えるので、今みるとまだ少しきゅんとしたりします。この帰るまでの数ヶ月、私は時間が許す限りずっとテレビを見続けました。音楽番組だけをです。それまでもずっとBET(ブラック・エンタテインメント・テレビ)は見ていて、5年間かけてmasta.Gさんと交代で撮ったビデオは数百の数を数えます。それはすべて当時のBAGUSに送られ、最新のアメリカ音楽がお店の中で見られるようになっていました。ゴスペル、ブルーズ、R&B、ソウル、ラップ、ヒップホップ、レゲエ、ラテン、JAZZ、ありとあらゆる新旧とりまぜた凄いミュージシャンの生のステージや、黒人の苦労の歴史。社会運動、マルコムX、キング牧師、KKK、公民権運動、ベトナム戦争、ウッドストック…。日本の学校では絶対に学べない本当のBlack Historyと、それに寄り添って歌い継がれた黒人音楽の数々、白人音楽のさまざまな形。今につながるスピリットと、新たな社会問題。


 ある日、テレビの前でふとmasta.Gさんに聞いてみました。

「なんで、この”私”に歌をやれと言うんですか。」

私の中では、まだ音楽をやる、歌を歌うということへのGOは出ていなかったのです。私の家がこんな状況になっても、masta.Gさんの意志は何一つ揺らいでいないようで、その決意みたいなものが一体なにに基づいているのかが、私には一向に理解できなかったのでした。


「英語や。英語が話せるからや。それが欲しいんや。」


「えいご?それなら私でなくても誰かもっと他に…歌も歌えて…」


「他にどこにおるんや。居るなら教えてくれ。名前いうてくれ。」


「僕は今まで何十年もいろんな人の歌うのをみてきたわ。

 でもちゃんと英語で歌える日本人は見たことない。俺は、やで。」


「店でLIVEやってると英語で歌う奴らも居るわ。でもな、

 外国人の客に言われたんや。

 『声はエエけどナニ言うてるのかワカランよ〜。こんなんアカン。

 だいたい〜の雰囲気だけや。』てな。で、俺もそうおもてるんや。」


「僕の欲しいのは、外国人でもなく、帰国子女の英語でもなく、

 自分の努力で、アメリカで生活して身につけてきたその君の英語やねん。

 帰国子女の子らは子供の頃から外国に住んでるし、発音も外国人と変わらんわ。

 それは僕の思ってるのとまたチョット違うんやな、コレが。

 ちょっとくらい訛ってても、自分でちゃんと意味がわかって、

 気持ちが同期して話してるその独特の英語やねん。

 この前、クリニックに見学に行ったときも、ちゃんと話してた。

 あんなホームレスの生活ガタガタになった暗い人らが、

 まるで幼稚園の子供みたいに君の言うとおりに手伝って、

 言われるとおりに部屋でおとなしく座って、

 君を頼りにしてる目を、僕は見てきた。それで確信した。

 
 僕は自分の音楽は外国人の人にも聴いて欲しい。

 そこに日本人ならではのメッセージを入れたいんや。

 日本の人には日本語で。外国人には英語で。どっちもやりたい。」


 「君は音楽の勉強したことないから、歌をうたっとっても声の出し方とかはまったく出来てないわ。リズムもまったく出来てない。そんなのは当たり前や。それを今からやっていくんや。それに、前に英会話の学校のクリスマス・パーティーあったとき、僕も覗きに行ったやろ。あの時、大勢の生徒らの前でマイク持って、しっかり司会やっとった姿も見た。大丈夫や。歌の練習を本気で頑張ったらこの子でも出来る、そのときまたそう思ったんや。」

そういえば、masta.Gは生徒でもないのに会場に覗きに来ていました。そのパーティーが催されていたホールで、自分企画のLIVEをしようか検討する意味もあって、ついでに私たちのパーティーとやらを見に来ていたことがあったのです。


「う〜ん。。。」私はもう返事さえできなくなっていました。

 そんな私に、masta.Gさんが聞きました。


「いや、そんなことよりもやで…自分、音楽好きやろ?それもかなり好きやろ?」

「は、はぃ。」


「本当に好きな奴がやらなアカンねん。音楽は。

君は”やりたい”んや。だから”やる”んや。」



そう言われても、状況が状況でもあって、どうしても決心はつきません。

「親も倒れたし、借金もあるし、音楽なんかやってられへんし。。。」


masta.Gはにっこり笑ってから、真顔で言いました。


「大変な思いを分かってるからこそリアルなもんが出来るんやで。

 気楽で何も困ってない奴の歌なんか心打つかいな。アホやの〜。」



私はただただ呆気にとられて、ますます混乱しながらも、
どことなく、なんとなく、やる気みたいなものが湧いてくるのを感じていました。

〜つづく〜






 

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2007年01月29日

第三話 未知との遭遇

My ”ミュージック”=MUSIC+MAGIC
このカテゴリーに書くことは、私の音楽の道の記録であります。


「人は、得意なことだけ選んでやってたら、うまくいくのは当たり前なんや。

そんなん凄くもなんともないし、悪いけど俺には何の感動もないねん。

ぜんぜん出来へんことを出来るまでやってはじめて大きい意味があるんやで。」
masta.G



 「弾けもしないのにベース!?」とは思いましたが、出もしないだろう声を出して歌う恥ずかしい気持ちよりは、まだ黙々と楽器を練習することには抵抗は薄くて、なによりも中学校からの一番あこがれの楽器ですから、思わず「やってみようかな」という言葉が出ました。


 ハリウッドの有名なギターの専門店であるGuitar Center(ギター・センター)の前は、いつでも仕事の行き帰りに車で通っていました。その頃は、毎日のようにハリウッドとサンタモニカを下の道で(フリーウェイを使うことなく、です。私は異様な怖がりなので、フリーウェイは走ったことがないのです。)大きな赤いギターのデコレーションを、観光名所のように眺めながら、そこに出入りしている派手なロックのお兄さん・お姉さん達を未来のスターを見るような気持ちで観賞していたのですけれど、自分がそこへ入ることなど夢にも思ったことは無く、その日が初めてのことでした。私がベースが好きだといった数年前の会話をmasta.Gが覚えていてくれたこともビックリでしたが…。たしか、「日本の人たちのベースの音は堅くて痛い感じがしますね。ベースは長〜いゴムみたいにビヨ〜ンと伸びる柔らかいぶっといのが好きなんです。」と大学生の頃に意味も分からず云った時に、「お!気あうなぁ。俺もやで。オモロイ事いうねんな。」と、云われた記憶があります。


 一旦センターのなかに入ると、事前の事情がどうであれ、もう自分で会話を進めるしかなくなります。masta.Gは日常会話程度の英語はそこそこ聞き取れるのですが、よほどの必要性を感じない限りは、めったに口は開きません。日本語でも同じかもしれませんが。笑。白人のお兄さんに、「オーケイ、よく聞いててね。私、生まれて初めて楽器を買いに来ました。エレクトリック・ベースギターが欲しいんです。身体が小さくてももてる位の大きさで、出来るだけ軽くて、いい音が鳴って、何よりも、グッドルッキンなベースをいくつか見せて下さい。」…注文だけはいっちょマエです。彼は笑って頷きながらしっかりと聞いてくれて、時間をかけて一緒に選んでくれて、弦は柔らかいのにしようとか、小さいアンプも要るだろうとか、丁寧に応対してくれました。慣れたものです。私のこだわり→金具は金色で!がキーポイントとなって、Fender Japanのベースギターに決定しました。ハード・ケースとストラップをオマケにつけてくれたので、ギタースタンドもオマケしてよ、と言ってみたら「幾つ要る?欲しいだけあげるよ」というので、一つだけしっかりしたのをもらいました。


 帰って、さあ弾こうとなったときに、私の思っていたのとは違う展開になっていきました。私は「教えてあげるから」というmasta.Gの言葉を、ド・レ・ミ・・・なんかの基礎から始めてもらえると思い込んでいたのですが、ストラップの長さを調節してくれて構える位置を高めに正してくれたっきり、そんな基本は一切と言っていいほど触れもせず、こう云うのです。

「君な、音聞き分けるの得意やろ?ちょっとの違いにも、いつもうるさいやんか。だからな、どれでもエエから好きな曲のCDかけて、音ひとつずつ聞き取って、場所探して、それで弾けるまでずーーーっと真似しとき。」

「そ、それだけ?」

「おう。。。それだけ?て。それが出来るまでどんだけかかる思てんねんな。まあ、黙ってやってみぃな。やってからモノ言えや。指は寝かしたらアカンで。まっすぐ押さえや。じゃ、がんばって!」

「…。」


 そんな具合に始まった私のベース・トレーニング。選んだのは当時は毎日のようにテレビ・ラジオで聴いていたHIPHOPです。大好きだからというのもありますが、何がいいかというと、HIPHOPのバックトラックには、私の大好物である、ちょっと古いR&BやSOUL MUSICからのサンプリングをモチーフに出来ているものが山ほどあって、もっとも泣かせる素敵なフレーズが、これまたHIPHOPの特徴なのですが、繰り返し、繰り返し、ループのように延々と入っているのです。初心者にとっては願ったり叶ったりの抜群の練習ネタでした。いくつかの音符の場所を探し出して、後はCDをリピートして一緒に弾くのです。大好きだから、何度聴こうとまったく嫌にならないのでした。ただし!何かが違う。。。何やろコレは?。。。数えるほどしか音符の数はないのに、CDで弾いている人と自分の何かが違うヤンか。。。私のはかっこわるく聞こえるし。masta.Gが「ホレ!遅れてるで。ズレとんがな!よう聴きや〜!そんなこと弾いてるか?一緒かそれ?」と畳み掛けます。


 悔しいのと楽しいのがゴッチャになりながらの練習です。もう夢中でした。いくらやっても「何か変やぞ」は付きまといます。ある日曜日の朝、一人で10時頃から、CDプレイヤーにCoolioのCDを入れてスイッチをオン。ベースも小さい目に鳴らして、いつものようにやっていると、誰かが叫んでいる声が聞こえました。気にせずやっていると、いつまでも叫んでいます。「はッ!私に向かって云うてるんや!!!」近所のアパートの住人が「うぉーい!静かにしてくれ〜!寝てるんや〜!!」と叫んでいます。ビックリしてベースを弾くのを止めて、窓から「ごめん〜!!!」というと、「ありがとーーー!」の返事。冷や汗かきました。 そして、次の瞬間、なんとも言えない笑いが出てきたのです。

「なんかウレシイぞ。怒られたのに!」

ハリウッドには、ロック好きのプレイヤー達がわんさか住んでいます。近くのスーパー・マーケットRalphs(ラルフス)は、別名「ロックン・ロール・ラルフス」と呼ばれるほど、お客さんもガンズ・アンド・ローゼズみたいな格好の人たちが一杯です。レジのお姉さんも、お客さんも、おしゃれでロックン・ロール・ラルフスそのものなのです。お互いの練習やCDの音がうるさすぎると、窓から声をかけて注意をしあうのが慣わしみたいになっている地域なのです。そこで、私もその仲間入りというわけです。それを話すとmasta.Gは云いました。


「やっとハリウッドに住んでる実感わいてきたか?

今までずっと、こんな天国みたいな場所に居たのに俯いて勉強ばっかりして。

もったいなかったな。もっとハリウッドを楽しもうや。」




 さて、あれは忘れもしない、ベースを買って三日目のことです。masta.Gに連れてもらって、Gさんの大学時代からのお友達の家にベースを見せに行きました。この人のことは、いずれ折を見てきちんとご紹介しますが、もうずっと何十年とカリフォルニアに永住されて、ギターをメインとしながらバックトラックを作曲したり、黒人の方たちとバンドを組んだり、ずっと音楽一筋で暮らして居られる男性ギタリストなのです。(今はこれだけでご勘弁を!)照れながらもベースを見せると、masta.Gさんが云うと同じ言葉、「はい、さっそく何か弾きや。」です。そこで、彼は作りかけのトラックをかけてくれました。ドラムのビートのループ、基本的な和音(ギターやキーボードだと思いますが)だけが入ったものでした。始めは何をやっていいのやら、まったく思い浮かばずに、しゅんとして黙ってベースを抱えて聞いてるだけでしたが、何十回も繰り返してかけてもらって、こわごわとベースを(消え入るような音ですが)いじっているうちに、なんらかのフレーズっぽいものが奇跡的にも出てきました。ほんの数音です。それ以上は無理やナと判断されたのか、彼は録音ボタンを押してくれたのでした。同じフレーズをただただ私は繰り返し、時には遅れ、時には指が弦から落ち、ループが切られるまで弾きつづけました。


 その拙い、拙すぎる、ベースの音が入ったトラックをカセット・テープに落として、帰りにもらいました。「練習しいや。」という大先輩からのメッセージです。初めての私の音楽の記録みたいなものでした。


 このカセット・テープを宝物のように後生大事に持っていた私は、日本に戻ってからずっと後の約4年後、これに歌を入れることになります。そう、あのへたくそなベースのままで。その上に、BAGUSのグランド・ピアノで密かに練習していたピアノの音を、オモチャのキーボードで再現して。そのオモチャのキーボードには、星が流れるような音がありました。あとキラキラっとした音も。その二種類を弾き足して、宇宙のような感触を出してみたのでした。ラップというよりも、朗読に近い英語の部分は、絵本の物語のように自分の過去を書いて、間には歌とバック・コーラスを入れたのでした。「世界の子供たちが眠りに落ちるような、子守唄のような、優しい物語のような曲にしたい。」とある日思ったのです。


 曲の最後には大好きなS.スピルバーグ監督の映画「Close Encounters of the Third Kind (邦題:未知との遭遇)」で、大切な意味を持っていた宇宙からのメッセージ音を乗せました。これもオモチャのキーボードで、似たような音を探し出して、練習してから重ねたものです。


「人の夢を笑い飛ばすことは止めよう。

 彼らがどんなことを成し遂げるのか、誰にもわからないのだから。

 ただ種を蒔いて、育ててあげて欲しい。

 そうすればある日、あなたはその木陰でゆっくり休めるのかも知れない。」

   
  (Once Upon A Time In L.A.より抜粋。英詞&訳:chi-B)

Once Upon A Time In L.A.


 
lyrics/melody/e.bass/keyboard/vocal: chi-B, バックトラック作曲:Kaz h.
  Final Mixing:masta.G
  無断転載禁止です。著作権保護を心よりお願いします。



 そんなL.A.での生活に終わりを告げる日がやって来ました。突然の母からの電話です。「今まで黙ってたんやけど、お父さん倒れてん。もう一ヶ月くらい前やねんけど。迷惑かけんとこうと思って様子見ててん。今のところ命には別状ないらしいんやけど、悪いけど、一回帰ってきて欲しいねん。」バブルの崩壊の、その余波。それが私の目の前に一気に押し寄せた瞬間でした。そして、それは第一波に過ぎなかったのでした。未だ知らぬ第二波、第三波、それが音も立てずに迫っていることを、その時の私はまったく予測できませんでした。


〜つづく〜



 
posted by chi-B at 01:10| 大阪 ☁| Comment(4) | 音楽物語 GROOVE TAO(道) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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